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官僚制組織とは何か

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組織論T  「官僚制理論」:「官僚制」・「官僚制組織」とは?

(組織の基礎理論としての官僚制理論)

この論説は,M.ヴェーバーの「官僚制理論」について解説したものです.

村上綱実,2014,『非営利と営利の組織理論: 非営利組織と日本型経営システムの信頼形成の組織論的解明』,絢文社から抜粋・要約)

0.1.「官僚制」とは何か  

0.1.1.「支配」の合理的類型としての「官僚制」  

0.1.2.   「利害」と「義務」による「支配」

0.1.3.   意思決定の諸動機のカテゴリー

0.1.4.   官僚制の諸特徴

0.1.5.   官僚制の不可避性と技術的卓越性

0.1.6.   官僚制の「逆機能」の指摘

0.1.7.   逆機能の構造

0.1.8.   ヴェーバーの官僚制理論の問題意識

0.1.9.  「官僚支配」を抑制する条件  

0.2. 官僚制の合理性としての形式合理性

0.2.1. 形式合理性と実質合理性

0.2.2. 形式合理性と実質合理性の矛盾

 

(参考文献などは,上記文献『非営利と営利の組織理論』(絢文社)を確認してください)

 

 

0.1.「官僚制」とは何か

.ヴェーバーの『経済と社会(Wirtschaft und Gesellschaft)(Weber, 1921(初版);1976)は,本文だけで945頁の研究書であり,その第1部第2章が「経済行為の社会学的基礎概念」(SS.31-121)第1部第3章と第4章が『支配の諸類型』(SS.122-180),第2部第9章が『支配の社会学』(SS.541-632; 633-734),第2部第1章と第7章が『法社会学』(SS.181-198; 387-513)などに分冊され翻訳出版されている.

「官僚制」が議論されるの『支配の諸類型』(ウェーバー, 1970)と『支配の社会学T・U』(ウェーバー, 1960; 1962)であり,それは「合法的支配」の最も合理的な純粋型としてである(Weber, 1976: 551; ウェーバー, 1960: 33).その解釈に関し,合理性のサブ・カテゴリーとして「形式合理性」と「実質合理性」,その矛盾関係が『法社会学』(Weber, 1976:396-397; ウェーバー, 1974:104-105)と「経済行為の社会学的基礎概念」(Weber, 1976:44-45; ウェーバー, 1975: 330-332)で検討され,その意味を確実に理解しておく必要がある.さらに官僚制理論のヴェーバー自身の問題提起が明記されている「新秩序ドイツの議会と政府――官僚制度と政党組織の政治的批判」(ウェーバー, 2005:319-383)の論文を検討し,その問題関心を確認する必要がある.そうでなければ皮相的な理解しか得られないリスクがある.

「官僚制」の意味を,前もって次のように指摘し整理しておこう.

1)「官僚制」とは「合法的支配」の最も合理的な純粋型である.

2)「合法的支配」は「法の支配」であり,制定規則の順守が貫徹される.

3)「官僚制」は,すべての意思決定と行動が制定された規則に基づくことを意味する.

4)「官僚制」は,制定された規則の適用が困難なケース,規則制定の際,想定されなかった個別的かつ特殊なケースでは問題が発生する.革新的な対応,イノベーションによる問題解決が要請される場合,官僚制には限界があり無力である.制定された規則を順守するようなイノベーションは考えにくいからである.

以上のような特徴をもつ官僚制は,すべての意思決定と行為が制定された規則に従い,組織の協力の調整は標準化された手続を順守し,標準化の完成度を高めることがあっても,制定された規則の枠を超えるイノベーションによる適応と問題解決は困難となる.以下において「官僚制」の意味「官僚制理論の問題提起を確実に理解しよう.

0.1.1. 「支配」の合理的類型としての「官僚制

ヴェーバーは,服従の動機から「支配」を 1)「伝統的支配」,2)「カリスマ的支配」,3)「合法的支配」(Weber, 1976:124)の三つに類型化した.「合法的支配」だけが合理的性質をもち,その最も合理的な純粋型,その理念型が「官僚制」である.

「伝統的支配」は,繰り返し成立してきた支配権力と秩序を神聖視する信念(Weber, 1976:552),伝統の神聖性への信仰から権威が与えられる伝統的慣習と,それに定められた支配者に従うことを意味する(Weber, 1976:124)

「カリスマ(charisma),「恵み(χάρισμα)を意味するギリシャ語を語源とし,新約聖書では「神の恩寵」,神に与えられた「非日常的力」を意味する.「カリスマ的支配は,支配者の非日常的な天恵の資質,呪術的能力,啓示や英雄性,模範性,強靭な精神,弁舌の力への服従者の感情的な帰依と信奉による支配である(Weber, 1976:124;555).伝統的支配には支配者の「恣意」,カリスマ的支配には支配者の「予言」が含まれ,予測・計算が困難であり,合理的根拠なく神秘的であり非合理的である.

「合法的支配」は「法による支配」であり,正規の手続で制定された規則の「合法性」への信仰から(Weber, 1976:124),法の順守が貫徹される.法は,支配者も拘束し,その恣意を排除し,規則の適用に予測・計算可能性が確保され,支配に合理的な性質を与える.組織管理での「官僚制」は,すべての意思決定と行為が制定された規則に基づく支配・管理システムである.ファースト・フード・チェーンの「マクドナルド」のマニュアルによる管理は官僚制的であり,その成功の理由の一つは徹底した官僚制的管理の活用である.制定された規則であるマニュアルは,今日では電子化され,携帯端末やDSなどのゲーム機器で学習やシミュレーション可能である.そのような管理は「マクドナルド」だけでなく「スターバックス」でも同様である.G.リッツアーは,店舗の管理システムだけでなく「社会のマクドナルド化」に言及している(Ritzer, 1993).「マクドナルド化」は「官僚制化」と同義である.国際環境基準ISO14001の導入は,環境基準マニュアルの順守環境保全の管理規則に定められたワーク・フローを確立させ,その順守から組織の官僚制的な性質を高める.膨大な管理規則やマニュアルの導入はICT(Information and Communication Technology)の導入によって運用可能となり,組織の「ICT化」と「官僚制化」は合理化において整合する.ICT導入は組織管理を自動化し官僚制化する.官僚制化は近代以降の管理システムに浸透し,大規模で重要な組織管理は官僚制なしですまされない.現在の組織の管理領域の大部分はネットワークではなく官僚制的管理に依存し,官僚制以外の代替的なシステムは未だに確立されていない.官僚制に代替するものがなければ,組織の支配・管理システムの合理化は官僚制化を意味する.官僚制の「支配」とは何かを以下で確認しよう. このページのトップへ

0.1.2. 「利害」と「義務」による「支配」

★「支配」(Herschaft)とは「力」(Macht)の特殊ケースであり(Weber, 1976: 541),「力」は「自己の意思を他人の行動に押しつける可能性」(Weber, 1976: 542)である.組織の支配は,組織成員が,個人の自由,自己への統制権を主体的に放棄し組織の命令に従うことである.その過程は,バーナードの組織論では「非人格化による調整」(「1.1.2.」)に該当する.「支配」,「非人格化」は,恣意や公私混同,個人的な自由を一部放棄し,組織の意思決定の複雑性を縮減させ,一定の秩序を成立させ,協力を調整する.「官僚制」の場合,「制定された規則に従う」という意味で秩序が成立する.問題はその動機である.

「支配」には,ヴェーバーによれば,「利害状況による支配」と「権威による支配」の二つがある(Weber, 1976:542).前者は,市場の寡占・購買力・交換力による支配であり,市場価値ある情報・知識・技能・資産の格差によって影響力が行使され,そのような支配への服従は「利害」に動機づけられ,服従する「義務」は生じない.この場合,経済的手段の自由な行使と「利害」が支配の成立に深くかかわる.一方,「権威による支配」は「権威」(Autoritäte)が「命令権力」(Befehlsgewalt)と「服従義務」(Gehorsamspflicht)を成立させ,支配の正当性への信念によって服従は「義務」となる.法を守るのは,自己の利得を高める利害からか,あるいは法を守ることが正しいことであり法を順守する義務からなのかの違いを考えればよい.「利害状況による支配」は不服従による損失と服従の引き換えに得られる利得のバランスの合理的計算が動機となる.「権威による支配」は,損失のリスクがあっても,無条件に義務から服従する.そのような支配は,非合理的には,伝統的家父長制での家長の動員権力に従う家構成員の「義務」,合理的には,制定された規則に定められた職務権限の範囲内で命令に従う「義務」に動機づけられる.それらの義務は規則の正当性への信仰,組織への所属に由来する.

「利害」と「義務」の違いについてヴェーバーは次のように指摘している.「家具運送会社が転居の時期のころに規則正しく広告を出すなら,この規則正しさは「利害状況」に制約されている」,しかし官僚制組織の職員が「毎日決まった時刻に」に出勤するのは「習慣」や「利害状況」だけでなく「命令としての秩序(服務規程)の「妥当」によって制約され」,命令への不服従は「不利をもたらすだけでなく,…「義務感」によっても…忌避される」(Weber, 1976:16; ウェーバー, 1987:47).「秩序の「妥当」とは,…慣習または利害状況によって制約された,単なる規則正しさ以上のことを意味すべき」であり,「利害」より「義務」による秩序の「正当性」が要請される(Weber, 1976:16; ウェーバー, 1987:4647).秩序の「正当性」は,その秩序が模範的,規範的,拘束的であると主観的に意味づけられることである(Weber, 1976:16; ウェーバー, 1987:46-48).それが正当であると信ずることから義務が生まれる.

「利害状況による支配」,本研究では「利害動機」の支配の規則性は利害の一致と妥協により,それに対し「権威による支配」は権威の正当性と職務規程の順守が「義務動機」であることを意味する.規範的な正当性に対し利害状況に方向づけられた支配は,それとは比較にならないほど不安定である(Weber,1976:16).利害は状況と時間とともに変化する.

W.A.ニスカネンによる官僚制の経済的分析の研(Niskanen, 1972)は,官僚の利害状況に制約された意思決定の行動理論であり,ヴェーバーの官僚制理論との分析視角の違いを知っておく必要がある.ヴェーバーは,支配の意味を狭義には「利害」ではなく「義務」に限定する傾向がある.ニスカネンは,ミクロ経済学の意思決定主体である「ホモ・エコノミクス」ように利得の最大化に動機づけられる官僚が「政治的な市場」において自己の効用,所属する部局と組織の「予算獲得の最大化」に動機づけられることを前提に官僚制を理論化している.後にニスカネンは,この「予算獲得の最大化」を,政策実現コストの最小化と予算全体からそれを差し引いた,官僚が規則の範囲内で任意に充当できる「裁量予算(discretionary budget)の最大化」に変更している(Niskanen, 1991:18-19)

ヴェーバーの義務に動機づけられた官僚制よりも,ニスカネンの理論こそ現代的状況を現実的に分析しているかも知れない.衆議院の決算行政監視委員会への財務省提出資料によれば,5年間で19兆円の復興予算が被災地以外の震災対策に支出されている.復興増税と消費税の増税を推進した財務省(国税庁)は,2011年度の3次補正予算で,被災地以外の12の税務署の耐震改修に12億円を充当している(毎日新聞朝刊2012/10/11).これは氷山の一角に過ぎないかも知れない.官僚の職務への倫理的な義務に過度に期待するのは危険である.個々の組織の具体的なケースでは,自己利得の合理的計算による利害と,道徳的感情や規範・格率による義務は,実際には混在し,流動的,結合的である.それゆえにこそ「支配」の純粋型では,その用語の意味の明晰性の確保から,「利害」と「義務」を明確に区別しておく必要がある.

「官僚制」は,制定された規則に基づく合理的な命令権限による「権威による支配」であり,純粋型において,利害から離れた服従の義務が要請される(Weber, 1976:542).「支配」は,ヴェーバーにとって限定された意味において「権威をもった命令権力」に「義務」から従う場合である.「支配」の「この狭義の概念は,利害状況によって――とりわけ市場的に――制約された,形式的には常に利害関心の自由な発動に基づいている力と,正に正面から対立する概念であり,したがって権威をもった命令権力と同義」(Weber, 1976:544)である.「命令の内容をそれが命令であるということ自体の故に,自分たちの行動の格率としたかのごとくに行われる(「服従」)」こそが「支配」を構成する(Weber, 1976:544)

市場の寡占的地位によって成立する経済的な「力」は,利害状況において価格設定など交換条件の決定に優位であり強制でさえあり得る.スポーツやディベート,コミュニケーション能力に優れている,性的な魅力に優れているなど,その他さまざまな優越性による影響力の行使も厳密には「支配」ではない.メガ・バンクが地方銀行に対し資産状況の優位性や情報の非対称性から交渉条件の設定に優位であっても,それだけで支配とは言えない(Weber, 1976:123).「支配」という場合,その命令を正当なものとして受容し,実際に従うチャンスのあることを意味する.

官僚制の問題をさらに詳細に検討する前に,ヴェーバーの意思決定と行動の動機づけのカテゴリーを整理しておこう.規則の制定と順守も,それらの動機から解明され,支配の意味が成立する.このページのトップへ

0.1.3. 意思決定の諸動機のカテゴリー

ヴェーバーによれば,人間の意思決定と行動は動機によって,(1)伝統的(traditional)(2)感情的・感動的(affecktuell)(3)価値合理的(wertrational)(4)目的合理的(zweckrational)の四つに分類される(Weber, 1973:12-13).以下において,それぞれの動機の特徴を確認しよう.

(1)        伝統的行動

慣れ親しんだ習慣や慣習に従うのが伝統的行動である.そこでは「今までそのようにしてきた」という理由から繰り返され,無意識的,条件反射的に意思決定と行動の規則性が成立する.一定の決まった朝食を毎日とる,いつも出席する教室の同じ席に着く,古くからの慣習に定められた行事を規則的に繰り返し継続的に行う,これらは伝統的行動である.日常生活の大部分は伝統的行動である.結婚式など慶事を「仏滅」の日には忌避するなども,それに該当する.仏滅の日に慶事を避けるのは,非日常的な力による「さわり」があるかも知れず,逆に,ある特定の行動の後に幸運が得られたら,以後,「縁起を担ぎ」必ずその行動を繰り返そうとするなど,その背後には超自然的,非日常的な力が介在する.

(2)        感情的・感動的行動

感情あるいは感動によって情動的に行われるのが感情的行動である.愛情による献身,嫉妬・憎悪による復讐,怒りによる衝動,「刺激に対する無制限の反応」(Weber,1976:12)としての行動がこのカテゴリーに含まれる.道義に反することへの激しい憤り,義憤の念から引き起こされる行動,道徳的感情に動機づけられた利他的な行動もこれに該当する.そのような動機は「実際の感動と感情状態によって,感動的(affecktuell),とくに情緒的(emotional)(Weber, 1976:12)である.

困難な状況にも断念せず,挑戦し続ける人々に,あなたが感動し,できることがあれば何かしたいと動機づけられ自らを駆り立てれば,それは感動的行動である.具体的例を挙げてみよう.ロドリーゴ・バッジョ(Rodrigo Baggio)は,1995年,リオデジャネイロのスラム街の子供たちのためのコンピュータ教室を開設した.貧困から抜け出し,子供たちが経済的に自立するため職業訓練と教育が必要であり,南米を中心に9カ国,1,000箇所に教室を設け,50万人以上の子供たちがコンピュータ・リテラシーを学んだ.バッジョは,必要なコンピュータを確保するため,1966年,ワシントンにある米州開発銀行に行き,無料でコンピュータの拠出を依頼した.開発銀行の官僚たちはコンピュータを無償で供与した.それらを輸送するため,彼は次にブラジル空軍に行き,無料で倉庫の使用と空輸を依頼した.ブラジル空軍の軍人たちは彼の要請に無償で応じた.ブラジルは,当時,コンピュータの輸入規制をしていたが,税関は,バッジョの説得に応じ,ブラジル空軍の空輸したすべてのコンピュータの通関を認めた(http://blogs.hbr.org/2010/02/rodrigo- baggios-persuasive- leadership/).官僚や軍人たちがバッジョの要請に応えたのは,バッジョの高い倫理性と道徳性に感動し,彼を信頼し協力したからである.

感動的行動は,感情の一過性にとどまらず,継続的な支援の必要性が覚醒されれば,事業として起業し,その継続の必要性と意義を意識化し,冷静に考え抜くに従って動機は合理化される.自己対象化し,意識的に事業運営を継続するための意思決定と行為がなされれば,感動的行動は「価値合理的行為」に接近する.伝統的行動であっても,伝統とは何か,その意味を問い,その重要性が意識化されれば,「価値合理的行為」に接近する.さらに確実な結果を得るため,費用計算と目的手段関係の論理性が追及され,技術的専門的知識に依拠する意思決定がなされれば,それらの行為は「目的合理的行為」に近似してゆく.ヴェーバーは,この移行プロセスの初期状態を感動的に制約された行為の「感情状態の意識的発動(bewußte Entladung der Gefühlslage)」と呼んでいる(Weber, 1976:12)

(3)        価値合理的行為

意思決定と行為それ自体の価値や意義の重要性を自覚し行われるのが価値合理的行為である.その価値が倫理的,美的,宗教的,何であろうと,その価値の意義と重要性への信念を意識し,いかなる結果になろうとも,そうすること自体に意味があるとし,意思決定,行為される.この行為は,一定の利得,一定の結果が得られるからではなく,そのように行為すること自体が正しいという義務に動機づけられる.「殉教」はその純粋型である.伝統的行動と価値合理的行為の違いは,価値合理的行為では動機が合理化されており,目標の意識的形成,一貫した計画的方向づけが見られる点で区別される(Weber, 1976:12).道徳的意味のともなう行為は価値合理的行為である.それは結果によって正当化される帰結主義的な意思決定ではなく,結果のいかんにかかわらず,正しい理由から正しいことをするよう義務から動機づけられる.

(4)        目的合理的行為

目的に対する手段として,目的と手段の適合性を論理的に考量し,冷静に計算し行われるのが目的合理的行為である.常に結果が問われ,意思決定と行為は目的を達成するための手段となる.価値合理的行為は意思決定と行為自体が目的であったが,目的合理的行為では,それらは手段として,目的の達成度から,その妥当性が問われる.費用・効果を計算し,効果が費用を可能な限り上回ることが,その手段としての選択の理由となる.計算が目的合理的行為の本質である.価値合理的行為は結果とは無関係に,その行為自体の意義が問われるが,目的合理的行為は結果から判断される.このカテゴリーは手段的,道具的に合理的である.

価値合理的行為と目的合理的行為の違いは,I.カントの「定言命法」(kategorischer Imperativ)と「仮言命法」(hypothetischer Imperativ)の関係に近似する「命法」とは「しなければならないこと」であり,カントにとって「行為がなにか別のもののために手段として善い場合,命法は仮言的である.行為がそれ自体で善いと考えられる場合,…定言的である」(カント, 2004:84-85).その行為が,目的に対する「手段として善い場合」は「仮言的」,「それ自体で善い」なら「定言的」である.また「定言命法」は,利害に左右されず無条件だが,「仮言命法」は,結果が意思決定の条件となる.企業が顧客に誠実に対応するのは,その「誠実」が結果的に収益に結びつく限りという条件つきなら,「仮言的」であり,収益達成のための手段である.無条件に顧客に誠実に対応し,その「誠実」それ自体が正しいからそうするなら「定言的」である(Sandel, 2009:119).ヴェーバーは「利害」と「義務」の動機の違いを意識するが,それは次のようなカントの視点にも同様である.カントは,人間の行為の「結果」ではなく「動機」によって道徳性を判断する.義務による意思決定のみが道徳性をともなう.支援も義務からではなく,支援することで自分が喜びを感じるからなら道徳的ではない.義務に動機づけられれば,結果的に喜びを感じたとしても道徳的な意味は失われない(Sandel, 2009:116).道徳的価値が与えられるのは義務動機による場合である.道徳的な行為であっても,それが利害動機であれば道徳的意味は含まれない.カントの次のような指摘を確認しておこう.

「善意志は,それが及ぼす影響や達成するもののために善いのではない」,「たとえ,この意志が…その意図を実現するための力をまったく欠いていたとしても,あるいは最善の努力を払ってもなお,何も達成できなかったとしても…その意志はあたかも宝石のように,すべての価値を内包するものとして,それ自身のために輝く」(Kant, 1964: 394; Sandel, 2009: 111)

「企業の社会的責任(CSR)」の実行は,企業がそれを義務として,それ自体,正しいから実行するなら「価値合理的」,「定言的」であり,道徳的意味がともなう.CSRの社会貢献が,企業の評判をよくし,従業員のやる気を引き出す手段であり,自社の収益性を高める手段なら「目的合理的」,「仮言的」である.ただしヴェーバーの諸動機のカテゴリーは,道徳的に正しいなどの倫理的な価値判断を含まず,事実認識のための社会科学的な性質のものである.その用語は,企業の社会的責任の本質を事実関係から認識し,現実の意思決定と行為の内容が実際に何を意味するか,価値判断を交えず,事実認識するための道具である.ヴェーバーの諸動機のカテゴリーと現実の人間の意思決定を比較し,近似するかどうかで,その特徴が認識可能となる.あなたの行為は,その行為の正しさからの義務動機なら価値合理的であり,そうでなく目的に対する手段,利得の手段として利害動機なら目的合理的であるとして,その意思決定の本質が認識可能となる.実際の意思決定と行為は,諸動機が混在し,流動的,結合的である.以下において官僚制の組織としての特徴を確認する作業に移行しよう.このページのトップへ

0.1.4. 官僚制の諸特徴

(1)        官僚制の性質(Weber,1976:125)

「官僚制」は,以下のような条件によって成立する.

       i.   目的合理的,価値合理的に,一定の手続きによって,規則が制定・変更され,

      ii.   規則は一般的規則として個別ケースに適用され,すべての意思決定と行為が規則に基づき,

     iii.   支配者も服従者も非人格的な秩序に従い,規則の範囲内で命令と服従がなされる.

(2)        官僚制組織の性質

「官僚制組織」は,以下のような性質をもつ.

       i. 継続的な事業運営(Betrieb)が行われ,

      ii. 規則によって職位・職務権限・職務内容が明確に定義され,

     iii. 職位の階層制が構成され,

     iv. 専門的知識による支配が成立し,規則を適用するための専門的知識と訓練を必要とし,

       v. 公私が分離し,職位の専有がなく,

     vi. 行政・調達の手段が職員から分離され,

    vii. 予備的な討論から最終的な決定まで,すべての意思決定・処分・指令は文書化される.

(3)        官僚制職員の性質

官僚制組織は,以下のような「職員」によって運営される.

       i. 人格的に自由であり,非人格的に職務義務に服従し,

      ii. 明確な職務階層制に位置づけられ,

     iii. 明確に定義された職務権限をもち,

     iv. 自由な選抜から雇用契約が結ばれ,

       v. 専門資格(試験・免状)によって任命され,

     vi. 厳格で統一的な規律と統制に服し(Weber 1976:126-127)

    vii. 職務は職業であり(Weber 1976:561)

   viii. 終身雇用制が前提とされる(Weber 1976:563)

官僚制組織は,すべての意思決定と行為が制定された規則に基づくという意味で形式的に合理的である.規則は管理と職務の標準化をもたらし,形式合理化は規則への準拠予測・計算可能性の増大物象化(Versachlichung)非人格化を構成要素とし,組織では一般的管理規則の個別的ケースへの適用を意味する.「物象化」とは,組織で人間が労働力として扱われるように,モノでないものがモノのように扱われることを意味する.ゆえに個別性は捨象され,組織構成員を非人格化する.市場での貨幣換算による財とサービスが貨幣という基準で価値が評価されることと同様,それは形式合理的である.このページのトップへ

0.1.5. 官僚制の不可避性と技術的卓越性

官僚制の特徴は,さらに以下のような6原則に集約される(富永, 1997:145)

       i. 権限の原則(規則で権限が明確に定義),

      ii. 官職階層制による単一支配秩序が成立,

     iii. 文書主義の貫徹,

     iv. 専門訓練と専門知識に基づいて分業化された職務活動,

       v. 兼職を禁止したフルタイムの職務遂行,

     vi. 技術的専門知識(法律学・行政学・経営学)の要請.

官僚制は,ヴェーバーによれば,「精確性・迅速性・一義性・文書に対する精通・継続性・思慮深さ・統一性・厳格な服従・摩擦の除去・物的ならびに人的コストの節約」(Weber, 1976:561-562)において最高度の技術的卓越性(technische Überlegenheit)を示す.それゆえ官僚制は「今日ではまったく避けえない」(Weber, 1976:128),官僚制を導入すれば,それなしではすまされなくなる.国家の行政機構,外交政策,生産設備一式,大規模プラント,ライフ・ラインの管理など,日常生活のあらゆる管理領域において,管理システムとしての官僚制に依存している.環境保護,品質管理,そして臓器移植の脳死判定も,定められた規則の順守が貫徹されねばならず,専門技術的知識に基づく規則の解釈と運用を必要とする.官僚制の不可避性について,ヴェーバーは「官僚制的行政が優越性を獲得した偉大な手段は専門的知識である.専門知識がまったく不可欠のものであるということは,財貨調達についての近代的な技術と効率的運営との結果」(Weber, 1976:128)であるとしている.技術的卓越性は専門的知識に依存し,「官僚制的行政は知識による支配を意味し,この点がこの行政の特殊合理的な基本的性格をなしている」(Weber,1976:129).しかし官僚制の技術的卓越性に対し,次節で扱うような「逆機能」の指摘がある.本研究では,「逆機能」の視点が管理プロセスの形式合理化という官僚制理論の本質的特徴と問題提起の重要性を見落とす問題を指摘する.このページのトップへ

0.1.6. 官僚制の「逆機能」の指摘

官僚制に関しR.K.マートンによる「逆機能」(dysfunction)の指摘がある(Merton,1968:251-252).マートンによれば,その真偽は問われるべきであるが,ヴェーバーは「官僚制組織のポジティブな達成と機能を強調し,官僚制組織内に発生するストレスや緊張を無視している」(Merton,1968:251)として以下のような「逆機能」に言及した.

(1) 「訓練された無能力」

官僚制は訓練による規律によって,規則順守の意思決定と組織運営を実現する.しかし訓練は過去の成功に基づき意思決定を標準化・ルーティン化する.ゆえに職務上の予測された問題には試行錯誤を要せず,規則を適用すれば,誰でも職務遂行が可能となる.しかし従来と異なる問題状況,規則制定時,想定しなかった状況では官僚制の対応は不適切な結果を導く.環境状況の変化にもかかわらず,従来通り規則を順守すれば組織目標の達成をむしろ妨げ,官僚制は「訓練された無能力」(trained incapacity)を露呈する.この問題はマートンが指摘するように「アンビバレント」(ambivalent)であり(Merton,1968:252),組織の矛盾過程を意味する.どのような制度も何を達成でき,何を達成できないかの問題がある.ゆえに官僚制の達成する正確性,信頼性だけでなく,官僚制の限界の認識が重要となる(Merton,1968:252)

(2)「目的の転移」

官僚制では組織目的の達成のため規則が制定される.しかし規則の順守自体が目的達成より優先され,手段であった規則の順守が目的であるかのような対応が行われる.これが「目的の転移」(displacement of goal)である(Merton,1968:253).規則の順守が信頼性を高めるのか,結果としての目的達成がそうであるかが問われねばならない.この指摘も組織の矛盾過程の問題に関係する.

(3)  規則への「過同調」

「過同調」(over-conformity)は,組織目的の達成のため規則が制定されるが,「法規万能主義」のように規則から逸脱する意思決定が回避されることを意味する.前例のない意思決定や規則の運用,規則の枠を超える意思決定は困難となる.組織目的の達成が妨げられても規則順守が優先される.マートンは,この問題を継続的な訓練による規則への心情(sentiment)を原因とし,「かかる心情から自己の義務に対する献身」によって,非効率でも「きまりきった活動が規則正しく遂行される」(Merton,1968:253)

(4)  繁文縟礼

官僚制の特徴の一つは「文書主義」である.あらゆる指令と意思決定をすべて文書化することは「繫文縟礼」(red tape)となる(Merton,1968:253).一定の書式の文書があること,文書に一定の文言が明記され,日付,署名のあるなしが問題とされ,そのような文書がなければ手続きが進行せず,執行もされない.この結果,文書を作成すること自体が職務となりかねない.

(5)  セクショナリズム

官僚制の職員は安定的な雇用関係から,同じ職場の職員と利害が共通し,また先任順に昇進し,職員同士の攻撃は最小限となる(Merton,1968:255).職員たちは内部集団に結束する(Merton,1968:257).この結果,公益や顧客より,自分たちの共通する利害を優先する.自分たちの利益が十分に保障されない場合,上司(大臣)の処理できない大量の資料や文書を提出し,必要な情報提供や報告を遅延,回避させ得る(Merton,1968: 255).こうして自己の保身と所属部署の利益を擁護する.

以上のような逆機能は,組織の実際の問題を多面的に描写する.より重要な問題は,逆機能を発生させる官僚制の構造にある(Merton,1968:254)このページのトップへ

0.1.7. 逆機能の構造

(1)  官僚制の「逆機能」の構造

逆機能は以下の官僚制の構造に依存する.1)「規則の順守」が「規律」として要請され,2)「規律」が規則順守の「心情」を形成し,3)「規則の順守」が目的化し,4) 想定外の状況で臨機応変の対応が困難となり,5) 能率達成のため制定された規則の順守がむしろ非能率を生む.マートンによれば,非合理的な「心情」が官僚制組織の矛盾要因となる(Merton,1968:254).官僚制組織の成員は規則を自己の利害と一致するよう解釈,運用し,目的達成の手段であった規則順守が目的に転移する.これらの心情は官僚制職員の勤続年数による昇進,昇給,年金などの利害状況に適合し,規則への過同調による保守化と形式主義を導く.

(2)  官僚制の非人格化の構造と規則による支配

官僚制の職員は職務において非人格化が強調される(Merton,1968:256).このことは,一般的規則が個別状況に適用され,法の下で平等な扱いが要請されるためである.特殊個別ケースも他のケースと変わらぬ一般的対応が必要となる.官僚制の職員は「人格的な関係を最小限にとどめ,…,個々のケースがもつ特殊性はしばしば無視される.しかし顧客は自分自身の問題は他とは性格が違うのだと確信している」(Merton,1968:256).ゆえに官僚制の職員は「取り扱いが非人格的で,…余りにも人情がなさすぎる」と非難される(Merton,1968:256).逆に官僚制の職員の個人的で親身な対応は「情実,えこひいき,ご機嫌取り呼ばわりされ(Merton,1968:258)得る.これらは組織の矛盾関係の問題である.ただしマートンの指摘は官僚制の合理的管理と心情との矛盾であり,ヴェーバーのそれは合理性と合理性との矛盾関係である.

(3)  逆機能と組織の合理性の矛盾過程

官僚制の逆機能の一つは規則への「過同調」であった.しかし規則順守への要請と過同調への非難は同一ケースで同時に成立する.たとえば提出期限の過ぎた公文書を担当者は受理するだろうか.提出期限1分経過なら受理,30分経過なら不受理だろうか.やむを得ない事情があればどうだろうか.状況に応じて異なる,その場限りの規則の運用は制定規則の存立それ自体を危うくする.何が「逆機能」で何が「順機能」か,「悪法」も「法」か,「悪法」は「法」ではないのか,その妥当性は利害状況に制約され政治的な党派性の問題となる.「逆機能」を指摘しても組織の問題解明にはならない.より重要なのは逆機能にかかわる矛盾過程をどのように組織論的に確定するかである.マートンは,合理的な規則の運用への非合理的で心情的な反発を逆機能の問題とする.しかし官僚制理論の問題提起は,近代の合理的組織に固有な合理性と合理性の矛盾関係(「2.2.2」)にある.ヴェーバーは,マートンの指摘するように,官僚制の問題状況や矛盾を無視した訳ではない.このページのトップへ

0.1.8. ヴェーバーの官僚制理論の問題意識

ヴェーバーが官僚制のポジティブな面だけを扱ったとのマートンの指摘(Merton,1968:251)は限定的である.なぜなら,すべての「機能」は状況に応じて「逆機能」であり「順機能」である.その判断は恣意的で,党派性や利害状況に依存する.ヴェーバーは「官僚制的装置が,これまた,個々のケースに適合した処理を阻むような一定の障碍を生み出す可能性があるし,また事実生み出している…」(Weber, 1976: 570)と指摘し,そのような官僚制の問題を「新秩序ドイツの議会と政府」(ウェーバー, 2005:319-383)の論文において以下のように指摘している.

ヴェーバーは,官僚制が真価を発揮するのは「明確に限定された専門的な種類に属する職務上の課題について,自己の義務感,不偏性および組織上の諸問題を裁量する能力」(ウェーバー, 2005:346)にあり,「政治的問題に係わりのある場合,官僚支配は全く役に立たない」(ウェーバー, 2005:346)としている.「純技術的にすぐれた,すなわち合理的な,官僚による行政と事務処理とが,人間にとって懸案諸問題の解決方法を決定する唯一究極の価値である」(ウェーバー, 2005:329)との前提において,官僚制に代替するシステムを確立できなければ官僚制化は不可避的である(ウェーバー, 2005:329).官僚制組織の専門職員が利害状況に制約され,権力を操作・獲得し,意思決定と妥協の過程が非公開の「閉ざされた扉の奥」(ウェーバー, 2005:324)でなされることが問題となる.ヴェーバーは,官僚制に関して以下のような三つの問題を提起している.

a. 官僚制化に対する個人主義的な自由の確保,

b. 専門知識をもつ職員の権力の増大,それに対する有効な統制,

c. 官僚制の限界の問題 (ウェーバー, 2005:330-331)

上記「a.」は組織に対する個人の人格的な自由の問題であり組織論では常に問題となる.「b.」は「官僚支配」と官僚の恣意的な利害動機の問題である.マートンの逆機能でいえば「セクショナリズム」に該当し,ニスカネンの官僚制理論はこの問題に適用される.上記「c.」をヴェーバーは最も重要と考えた(ウェーバー, 2005:330)

官僚制組織の職員は,政治組織なら「政治家」,経済組織なら「企業家・経営者」としての指導的役割を果たせない.官僚制の専門職員は制定された規則と命令に従い誠実に職務を遂行する(ウェーバー, 2005:331).政治家・企業家と官僚制の職員の職務内容は重なり合っているが,決定的に違う部分がある.官僚制の職員が政策目的の設定や政治的党派性から距離をおくとしても実際の職務では政策の権力的,政治的,資源の権威的分配の過程に深くかかわらざるを得ず,それらの職務内容は重なり合っている.決定的な違いは,職務内容よりも責任の取り方の違いにある.官僚制の職員には,自らの意思に反する命令に従う義務があるばかりか,非党派性を守ること,自身の見解と一致しなければ,異議申立はできるが,命令の忠実な実行のための自制がむしろ名誉となる(ウェーバー, 2005:346).このことはバーナードの組織論での協力を調整する非人格化の要請と整合する.バーナードの組織論とヴェーバーの官僚制理論から,組織の本質は,協力を調整する非人格化による支配と服従であると解釈できる.一方,政治的指導者は,自己の見解を貫徹し,それにそむく意思決定が求められれば辞職しなければならない.そうでなければ指導者とは言えない(ウェーバー, 2005:331-332).ここに「官僚支配」の問題が発生する.「官僚支配」とは,専門知識をもつ職員,エクスパートによる支配であり,「テクノクラシー」の問題と言ってよい.専門職員は自己の権力的利害ができるだけ統制されないこと,自己利得の拡大を達成しようとする(ウェーバー, 2005:346).官僚は「個人的威信」,「虚栄の関心」,「無統制状態への欲望」(ウェーバー, 2005:352)の利害に動機づけられる.この点に関してヴェーバーはニスカネンの研究(「2.2.2.」)に先行する.専門知識をもつ者は自らの優位を「彼らの知識や意図を秘密にするという手段によって,更に一層高めようとする….官僚制的行政は,その傾向からすれば,常に,公開性を排斥する行政である.官僚は,できさえすれば,彼らの知識や行動を,批判の目から隠そうとする」(Weber, 1976:580).ヴェーバーは,この問題を「官僚支配」(Beamtenherrshcaft)と呼んだ(松代, 1997:194)このページのトップへ

0.1.9. 「官僚支配」を抑制する条件

官僚支配の権力の源泉は専門教育によって得られる「技術的な専門知識」と実際の職務で知り得た「職務上の知識」である.これらの知識を専門職員の好意に頼らず得ることが「官僚支配」を統制する第一の条件である(ウェーバー, 2005: 347).そのため文書閲覧,実地検証,宣誓のうえでの証人尋問などの方法がある.これらが官僚を統制する手段となり,逆に知識を「職務上の秘密」とすることが官僚の「最も重要な権力手段」(ウェーバー, 2005:347)となる.日米の密約に関して外務省,年金問題に関して社会保険庁,原子力問題について経産省,放射線量問題について文科省,いじめに関し教育委員会は情報を十分に開示しない.損失を隠そうとする企業も財務状況の適正な開示を回避する場合も同様である.利害状況に制約され情報は操作,隠ぺいされる.官僚支配を抑制するのは「議会の統制によって強要される行政の公開性」(ウェーバー, 2005:349)である.企業組織で言えば市場の公開性の要請である.ガバナンスへの透明性や社外取締役の選任義務化,監査法人の定期的変更と選定の入札制,監査部門とコンサルティング部門の分離など,それらの有効性が検討される必要がある.

「官僚制」は「専門的知識」による支配と実効である(2.1.5.」,Weber, 1976:129).「専門的知識による支配」には二つ意味がある.第一に組織管理過程での「専門知識への依存」であり「官僚制化」による「合理化」である.第二に「官僚支配の拡大」である.両者の関係は密接だが必然ではない(Weber, 1976:580).「官僚制化」それ自体は専門職員への集権化を意味しない.「IT(Information Technology)化」が自動的に管理システムの分権化を意味しないのと同様である.「官僚支配」は,利害状況に制約された専門知識をもつ専門職員による恣意的な支配であり,合法的な命令権力による義務動機のそれではない.確かに専門的知識をもつ者は非専門家に対して自らの主張を貫く上で相対的に有利である(Weber, 1976:129).しかし専門知識をもつ者が常に権力を掌握する訳ではない.

H.A.サイモンの「専門家の選択」の議論(Simon, 1977:7-8)を検討し,官僚支配の問題を行政と市民との関係から検討しよう.一般市民は官僚制の職員の専門知識に対抗できない.それは医師の専門的知識に患者が依存し,医師の指示に従うのと同様である.しかし専門知識をもつ職員に対し,その意思決定の妥当性の吟味は可能である.そのために市民が専門職員以上に専門知識に精通する必要はない.専門家の間でさえ見解の不一致が生じている.以下のようなサイモンの指摘を検討しよう.

「専門家はめったに,結果についてのまた政策的帰結についての専門家ではない.彼は自分の特定の専門的関心から離れた技術的分野では,たいして専門的でさえない.専門家が自分の結論をどう導いたかを説明するとき,我々は一般に,彼の推論の仕方の多くが現実について我々の誰もがもっているそれと同じ良識や常識から導かれていることを見い出す.専門家が,自分のもつ専門的立場から直接彼の結論を引き出したと主張するとき,我々は彼らに反論することが難しくなる.しかし我々は普通現実の世界で,特殊な事実を一般的な結果に結びつける常識的かつあいまいな論理の道筋を,我々自身で進んで検討し判断したいと思う.もしも道筋が明らかであれば,我々はこのことができる」(Simon, 1977:7-8)

専門知識がその専門分野の隣接領域に波及する政策の策定や結果について何ら実効性がなく,まったく役に立たなかったことは3.11以降の原発事故の経過を顧みれば明らかである.それどころか明らかな間違いを犯すことさえある.専門的知識と安全性の確保が直接的に結びつくどころか,安全性の確立に対して専門的知識がいかに無力であったかを物語っている.専門知識をもつ者は,意思決定過程を公開することで意思決定の仮説や推論を他の専門家の吟味や批判にさらすことになる.サイモンの言うように「審判の役割を果たすのに,自分自身がチャンピョン・ボクサーになる必要はない」(Simon, 1977:7)審判はプレイヤー以上に有能なプレイヤーである必要はない.原発の問題を考えるために市民は原子力の専門家よりも専門知識に精通する必要はない.専門知識をもつ者の意思決定を理解するのに専門家以上に専門知識を必要としない.推論の多くは,サイモンが指摘するように,一般的な良識や常識から導かれるのであり,われわれはこのことを忘れてはならない.さもなければ情報の非対称性によって市民は専門家によって不可避的に操作される.これらの問題は,官僚制の意思決定の合理性の意味内容の問題であり,以下に官僚制の合理性とサブ・カテゴリーの問題を検討しよう.このページのトップへ

0.2.  官僚制の合理性としての形式合理性

「官僚制」の合理性は「形式合理性」であり,「官僚制化」は「形式合理化」を意味する.ヴェーバーによれば,「純粋に官僚制的な行政,すなわち官僚制的=単一支配的な・文書による行政は,…あらゆる任務に対して形式的には普遍的に適用できるという点で,純技術的に最高度の仕事を果しうるまでに完成することが可能であり,これらすべての意味において,それは,支配の行使の形式的には最も合理的な形態である」(Weber,1976:128).「およそあらゆる継続的な仕事は官吏によって役所で行われているのだという事実を,かたときも思い誤ってはいけない.われわれの日常生活は,この枠の中にはめ込まれているのである.けだし官僚制的行政がどこにおいても──他の事情にして同じならば!──形式的=技術的に最も合理的なものであるとするとき,それは,(人的または物的な)大量行政の必要をみたすためには,今日ではまったく避けえないものである」(Weber, 1976:128).組織管理において「合理性」は「形式合理性」と「実質合理性」のサブ・カテゴリーを形成する.ヴェーバーは,この2つの合理性の矛盾関係において,近代の本質的な問題提起を行っている.

0.2.1.  形式合理性と実質合理性

(1)        『法社会学』における形式合理性と実質合理性

法の近代化(=合理化)をヴェーバーは次のように指摘している.「法とは,それ自体の中に論理的な矛盾や欠陥を含まない一つの完結的な「規範」複合体であり,これらの規範を「適用」しさえすればよいのだという観念が,もっぱら法思考を支配することになった」(Weber, 1976:493).さらに「法秩序」の形式性について「秩序が拘束的に妥当するものと見なされているが故に,まさにこの理由からして,純粋に形式的に秩序の順守を実現する…,…合目的性の諸理由やあるいはその他の実質的な諸条件から,秩序の順守を実現する,というのではない」(Weber, 1976:182)とするとき,形式性は,事実の具体的な意味内容,個々の功利的な目的など,実質的な意味内容を捨象する.経済の合理化(=市場化)の側面では,それは,すべての具体的な価値が貨幣換算され,計算されることになる.このとき貨幣換算の対象となったモノの個別性と価値は価格に置き換えられ一般化される.

「形式性」について確認しよう.「法が「形式的」であるというのは,実体法上も訴訟上も,もっぱら一義的で一般的な要件メルクマールのみが尊重されるということである」(Weber, 1976:396).そしてこの「形式主義」は「二重の性格」をもつ.第一に「外面的メルクマールの形式主義」として「法的に重要なメルクマールが,感覚的に直観的な性格をもったもの」,「外面的なメルクマールを固執すること」である.「例えば一定の言葉が語られたとか,署名がなされているとか,その意味が絶対的に確定しているような一定の象徴的な行為がなされたか」に固執する(Weber, 1976:396-397)などは,厳格な法の形式主義を意味している.第二に「論理的抽象の形式主義」があり,それは「法的に重要なメルクマールが論理的な意味解明によって明らかにされ,次いで,厳格に抽象的な諸規則の形で明確な法概念が形成され,この法概念が適用されるということ」(Weber, 1976:397)を意味する.後者の論理的な合理性が貫徹されるとき,形式合理性の実質合理性との不可避的な矛盾関係が成立する(Weber, 1976:397)

「論理的抽象の形式主義」について理解のため具体化しておこう.ファースト・フード店の商品の製造・販売を考慮すれば,その商品はどのような商品で,どのような購買目的や意図があるのか,消費者はそれに対してどのようなニーズと嗜好があるか,その付加価値は何かの意味解明が行われる.それによって注文を受けてから何分以内に顧客にサービスされる必要があるか,加熱処理の時間は何分か,サイド・メニューは何がふさわしいか,店舗の位置,店内にどのようなレイアウトが適合するか,価格設定はどのような範囲内であり得るかなどの諸規則が制定される.その結果,ファースト・フード店の店舗運営の実践は,合理的に定められたワーク・フローの規則の順守によって管理され,マニュアルと呼ばれる規則の体系が適用される.

「実質合理性」(materiale Rationlität)への要請は,「抽象的な意味解明の論理的一般化〔によって得られた規範〕ではなくて,それとはちがった性質の権威をもつ規範が,法律問題の決定に対して影響力をもつべきだからである.すなわち,倫理的な命令や,功利的またはその他の合目的性の規則や,あるいは政治的な格率が影響力を持ち,これらが外面的なメルクマールの形式主義をも,論理的抽象の形式主義をも打破すべきである」(Weber,1976:397)ことになる.以上の論点も具体化し,ファースト・フード店の課業に関し再構成してみよう.商品の生産・販売過程が形式的な規則すなわちマニュアルに明記されても,個々のすべての顧客の多様なニーズを充足できない.個別の顧客の特定の重要なニーズを充足する必要,マニュアル通りには対応できない状況では,必要に応じて制定された規則を超えた臨機応変な対応が現場スタッフに要請される.たとえば特定の食品に対し特殊なアレルギー性や宗教的な戒律のある顧客に対しては,一般の顧客向けに作成されたレシピやマニュアルでは対応できないどころか,危険である.

「形式合理性」と「実質合理性」を次のように整理しておこう.「形式合理性」は,制定された一般的規則が個々のケースに適用され,すべての意思決定と行動が制定された規則に従うこと,「実質合理性」は,個別ケースで,制定された規則の枠を超え,特定の価値や目的を意識的に実現する度合いであり,制定された規則を離れ,あるいは超法規的に意思決定者の主体的な洞察と責任が要請される.経済的活動に関し,この問題を次節で確認しよう.

(2)        経済活動の形式合理性と実質合理性

ヴェーバーによれば「経済行為の形式合理性とここでいうのは,その経済行為にとって技術的に可能でもあり,また現実に経済行為に適用されてもいる計算の度合いのことをさす….これにたいして,実質合理性というのは,経済的指向をもった社会的行為による一定の人間集団…のそのときどきの財供給が,一定の価値評価の公準〔それがどのような性質のものであれ〕という観点から,そのような公準のもとで観察され,行われているまたは行われうる度合いのことをさす」(Weber, 1976:44).さらに,「一つの経済行為は,すべての合理的な経済に固有な「事前の配慮」が,量的に,つまり「計算可能」な熟慮というかたちで表示され得,また実際そのように表示される度合いが高ければ高いほど,形式的に「合理的」と呼ばれるべきである….だからこの概念は…,少なくとも貨幣という形態が最大の形式的な計算可能性を示す…という意味で一義的である.…これにたいして実質合理性という概念は,まったく多義的である.それは,ただ次の公約数的な意味を表しているだけである.すなわち,技術的に可能な限りの適合的な方法を用いることによって目的合理的に計算されている,という事実が純粋に形式的〔ただし相対的に〕・一義的に確定しうるというだけでは,考察として,じつはかならずしも十分ではない.そのほかに,倫理的・政治的・功利主義的・快楽主義的・身分的・平等主義的等々,その他,何らかの要求を設定して,経済行為の結果──たとえ,それが形式的にどれほど「合理的」,つまり計算可能であるにせよ──を,それとの関連において価値合理的ないし実質的に目的合理的な尺度で測定する,ということが必要である(Weber, 1976:45)

業務内容の形式合理化を具体的ケースで確認してみよう.東京都が主催した「東村山市本町地区プロジェクト」(2004-2009)では,民間企業による建物価格を3割引き下げる実証実験が行われた(http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/juutaku_seisaku/higamura_projekuto.htm).都営住宅の建て替えで生じた土地に民間活力を導入し,多摩地区の郊外居住モデルとなる街づくりを示し,良質で廉価な戸建住宅の供給のため,住宅価格がどこまで下げられるか実証実験が行われた.このプロジェクトに参加した「潟Aキュラホーム1978年創業,資本9,314万円,売360億円,従業1,152名)は,東京都の建物の平均坪単価74万円に対し37万円で建設を可能にした.それは住宅建築の設計と施工を構成する一つ一つの作業の徹底的な計算によって実現された.戸建住宅は実際に価格が明示されない現状がある.

伝統的な職人の木造建築には不要な作業手順や工程が含まれている.現場で建築を請け負う大工と工務店に住宅の建設コストの計算方法がなくコストを把握できず,また全体の設計から不要な厚みのある梁や木板が施工されることもある.アキュラホームが行った木造建築へのコスト計算の導入は,F.テイラーの「科学的管理法」(Tylor, 1993)の適用と近似している.テイラーは「時間研究」として作業員が実際にそれぞれの作業にどれだけ時間を要するかストップウオッチで計測し,1日の標準仕事量を設定した.また「動作研究」として作業動作の無理,無駄のない方法を観察し,標準作業が設定された.これらの計測と観察によって作業員のすべての課業の標準時間と標準作業が実証的に確定され作業効率が追求された.同様にアキュラホームは,1作業あたりの労賃や材料費を10円から100円単位で計算し,不要部分の排除を全作業工程まで徹底的に検討した.日本の住宅建設の現場を実質的に担ってきた工務店の伝統的な職人の施工では,一つ一つの作業や材料費を計算せず,工事一式を「まる投げ」で施工を受け,実際に建てなければ損得がわからない状況であった.

アキュラホームでは,2002年以降,建築に必要なすべての部材の価格表を作成し,外壁材から床材まで2万項目以上のコスト分析を行いデータベース化した.職人の工賃に関しても作業ごとの標準工賃が1分当たり単価,1円単位で計算された.「サッシ取り付け」3,221円,「押し入れ中段の取り付け」1,224円,「勝手口ひさし取り付け」816円などと計算され確定された.このデータベースは「アキュラシステム」として全国の工務店に販売している.部材費,作業工賃,人件費が合理的に計算可能となった.その計算に依拠しコスト削減が行われる.たとえば天井まである背の高いドアは,背の低い通常のドアより単価は高いが,実際に材料費と施工の手間費用を計算すると,むしろ背の高いドアの方が施工を含めて安価となった.通常の部屋とクローゼットの中に使用するクロスや底材はクローゼット用の品質を落としコスト削減できると思われていたが,実際には,より品質の良いクロスや床材を統一して使用したほうが,材料費は高くなるが,資材管理と作業の単純化,作業時間の短縮からトータルのコスト計算では安価となる.こうして品質を高めながらコスト削減が計算によって明らかにされる(日経産業新聞2014/02/13).このような高品質で廉価な住宅の施工によって,新築住宅の着工戸数が減少傾向だったが,アキュラホームは1996年から17期連続の増収である.

戸建住宅を建設するすべての作業工程,労賃と材料費の計算可能性を貫徹し合理的な施工方法が可能となる.その建築方法は,計算の度合いが高く,形式的に合理的である.高品質でリーズナブルな価格設定の住宅を実現できればアキュラホームは本業で社会貢献できる.形式合理性は経済的活動において,事前の配慮と熟慮の貨幣による計算可能性の度合いであり,業務は定型化・標準化される.貨幣計算から木造住宅施工の作業工程とコスト計算が確定される.ただし貨幣計算から住宅デザインの確定は困難である.

具体的ケースをさらに検討しよう.ソニーは,1997年,米国流のコーポレートガバナンスを取り入れ,執行役員制を導入した.これによって商法上の取締役と各事業部門の執行責任者が分離した.株主支配が強化され,取締役を38人から米国並みの10人に減員した(日経新聞朝刊1997/07/30).商品開発にもEVA(経済付加価値)による利益管理が導入され,生産部門をEMCSと名付けて子会社化し,付加価値を徹底的に計算しコストを下げるシステムが導入された.この結果,ソニーの経済活動の貨幣による計算の度合いは高まり,管理システムは形式合理化される.その反面,イノベーションは計算されない.モノになるかどうかわからない技術を上司に隠れて温める,それまでのソニーにあった開発現場の習慣は失われ(日経新聞電子版2012/10/05),形式合理化が進められた.実質合理性は,個別的状況や特殊な条件において規則の枠を超えてケース・バイ・ケースでの対応の性質を意味する.ソニーの「ウォークマン」の開発は一人の若手社員の提案だった.しかしソニーの全役員と技術専門職は反対した.ゴー・サインを出したのは当時会長だった盛田昭夫氏一人であった.

今日,ほとんどすべての自動車に装備されている「エア・バッグ」がホンダ技研で提案された当初,社長以外は全員が反対したが,開発期間16年を要し実用化された.「エア・バッグ」が標準装備になる前,年11,000人以上が交通事故で亡くなっていたが,現在5,000人を切っている(日経新聞Web2012/10/11).「ウォークマン」も「エア・バッグ」も,開発から製品化までのプロセスを形式合理的に計算できない.イノベーションには計算を超えた動機づけが必要である.コスト計算もイノベーションも,どちらも事業の継続性に必要である.このページのトップへ

0.2.2. 形式合理性と実質合理性の矛盾

(1)  合理的組織の矛盾関係

組織での形式合理性と実質合理性の矛盾関係に関し,難民問題を例として理解を確実にしよう.「難民」は,「難民条約(Conventional and Protocol relating to the Status of Refugees)(1951),第1条によって「人種,宗教,国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であることまたは政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために,国籍国の外にいる者」(http://www.unhcr.or.jp/protect/treaty/index.html)であり,国境を越え移動していなければ「難民」ではなく,UNHCRの救援対象にならない.UNHCRのミッションは人道上の「難民」の救済であり,その任務は「難民」の保護であり,条約によって規定される.

1991年の湾岸戦争の際,180万人のクルドの人々がイラク軍の追撃を受けイランやトルコに向かった.そのう50万人がトルコ国境へ移動した.国内でクルド人の暴動などに手を焼いていたトルコ政府は国境で入国を拒否し,クルドの人びとは国境地帯で極限的な飢えと寒さに直面した(緒方, 2006:40).国際法を順守すれば国境を超えていな「国内避難民」(internally displaced people)の救援はUNHCRの管轄外である.しかし人道上からUNHCRは,イラク国内で避難民を救済すべきかの決断に迫られる.実際には救援の手が差し伸べられ,「国際法がどうあろうと」「命を守ること」が,国際法の規則の枠を超える実質合理的な意思決定が選択された.「国内避難民」の救援には前例がなく,この判断が難民救援の新しい枠組みとなり,難民保護のために国内紛争に国際的な介入が行われる端緒となった.これによって避難民が庇護を拒否され「追い返された」場合の帰還を促すため,国際的な軍事介入によって安全地帯を設置する方法が模索されることになり,国際法上,安全保障上でも重大な問題をはらむことになる(緒方, 2006:40).冷戦時代には国家主権と内政干渉の問題に抵触し,「国内避難民」は保護されなかった.

合理的な組織では規則の順守と同時に規則の枠を超える臨機応変の判断が要請される.この矛盾は規則順守の形式合理的な意思決定と規則の枠を超え個別状況に対応する実質合理的なそれとの矛盾である.今日,UNHCRは異変があれば72時間以内に50万人の難民を援助するための避難所の設置,必要な物資の供給とスタッフの配置が可能となっているが,事態はまったく改善されていない.

(2)        形式的合理的,実質合理的な意思決定領域

『法社会学』において,ヴェーバーは「法理論の抽象的な形式主義と,法によって実質的な諸要請を充足させようとする要求との間には,避けることのできない矛盾」(Weber, 1976:469)があると指摘し,この矛盾関係が官僚制理論の重要な問題提起となる.ヴェーバーにとって「近代」は,調停不能な形式と実質の合理性と合理性との二律背反のうえに成立する(Bendix, 1977:485)

形式合理的な組織としての「官僚制」は,秩序を維持する装置,支配の道具である.形式合理化は,システム論の視点から,システムの複雑性縮減の機能に対応する.アシュビーの「必要多様性の法則」(Law of Requisite Variety)では,システムが外部環境の複雑性の増大に適応するため,システム内部の複雑性を増大させ,システムを維持する(Ashby, 1956:206-207).「複雑性」は可能な状態の数である.市場状況の不確実性が高く,企業組織の環境状況が複雑で対応すべき状態の数が増大すれば,組織の内部の対応策の数も増大する.内部の複雑性を増大させ,同時にシステムの秩序を維持するため,システム内部の複雑性は縮減されねばならない.システムと環境の境界は複雑性の格差である.システムの内部の複雑性は,規則の制定と順守によって縮減される.実質的合理的な意思決定は,規則の枠を超えるという意味で,制定された規則に明記されていない新たな選択肢を想定し,選択肢の数を増やし,複雑性を増大させる機能をもつ.形式と実質の関係は,システム内部の複雑性の縮減と増大という矛盾する機能に対応する.

ネットワーク研究での次のような指摘が,この問題と整合する.「不確実性ないし不安定性に挑戦していくには,組織自体に多様性を持たせ,情報の獲得の仕方に多元性を持たせなければならない.つまり,組織のそれぞれのところに,みずから情報を集め,みずから問題を解決し,状況を切り開いていく能力を持たせることが望ましくなる.一言で言えば,それは脱コントロールの方向となる」(今井,1990:27).「脱コントロール」とは,官僚制の形式合理的な支配からの切り離しである.同時に組織は内部の秩序維持する要請にも応えなければならない.

意思決定理論において,H.A.サイモンは意思決定領域を「プログラム化される意思決定」と「プログラム化されない意思決定」の二つに分類する(Simon, 1977:46).それらは「形式合理的な意思決定領域」と「実質合理的な意思決定領域」に対応する.

組織の「制定された規則」と情報処理の「プログラム」は,どちらも論理的な意味解明がおこなわれ,内的矛盾を含まない,形式的で抽象的な諸命題によって構成される.「プログラム」とは,「複雑な課題環境に対してシステムが反応していく場合,その一連の反応を支配する詳細な処方箋あるいは戦略のことである」(Simon, 1977:46).意思決定は,それが反復的で常規的な程度に応じて,プログラム化される.「手続規則の集合こそ,定義により,プログラムそのものに他ならない」(Simon, 1977:47)

官僚制的な管理でも,くり返し発生する問題への対処のため,問題発生のたびごとに解決策を考え,試行錯誤する必要のないよう管理規則が制定される.逆に手続きが構造化されず,規則が制定されないのは,予測できないか,問題発生の頻度が低いか,問題の性質が極めて深刻な場合である.このような場合,規則は制定されず,プログラム化されることなく,現場での状況に応じた判断と対応が要請される.

「実質合理的な意思決定」とは,制定規則を適用する個別的状況に規則が適合しない場合,規則の枠を超え,状況適号的に前例のないイノベーションによる問題解決が要請される合理的な意思決定である.この意思決定は,結果に対する意思決定主体の責任が要請される(松代, 1997:195).組織管理の問題解決の一側面は「プログラム化されない意思決定」を一連の「プログラム化される意思決定」に変えることであり(Siomn,1977:70;78;81),本研究の文脈では意思決定の形式合理化,課業の標準化・マニュアル化であり組織管理の官僚制化である.情報技術の発展は,プログラム化されない意思決定領域のプログラム化の可能性を追及し(Siomn,1977:81),それは「官僚制」の適応領域の拡大の方向にある.情報技術は,処理領域と処理速度を高めるので,官僚制化の適応領域を拡大させる.ただし官僚制化は,問題解決を標準化されたプログラムで対応し,イノベーションによるそれではない.そのような官僚制が,「ネットワーク組織」とどのように関係づけられるだろうか. このページのトップへ

最後に官僚制批判の限界を確認しておこう.それは同時に官僚制の効用の限界でもある.たとえば違法行為は合法的ではなく,罰せられるべきである.その極限の一つは殺人である.殺人行為に何ら正当性はなく厳罰に値する.しかしそれが正当防衛であったらどうだろうか.官僚制の管理システムは,イノベーションを妨げる,しかしイノベーションを回避しなければならない正当性も限定的であるが十分に指摘可能である.イノベーションには莫大なコストかかりリスクは大である.リスクを取らないことがリスクを最大化するとの指摘は妥当するが,間違いが許されないような人命にかかわるケースと特定の時期では,官僚制的な管理システムは正当化される.単純に官僚制の優位性を指摘することも,ネットワークの優位性を素朴に指摘することも,厳密な議論と検証に値しない.その優位性は,どのような前提条件で成立するかが経験的に明示される必要がある.官僚制的管理システムの優位性と不可欠性は,形式合理化(数値化・マニュアル化)される,プログラム化され得る意思決定領域におい成立する.制定された規則と明確な解答が得られる場合,治療法の標準化されている疾病の場合の治療行為は,プロフェッショナル官僚制の適用が優位である.しかしながら解明されていない疾病に官僚制的管理システムは対処することはできない. このページのトップへ

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担当: 村上綱実(Kohjitsu MURAKAMI) 立教大学大学院 21世紀社会デザイン・ 経営学研究科兼任講師
( 公益財団法人) 政治経済研究所 主任研究員 
最終更新日 : 2015/04/12