マルチスピーシーズ人類学研究会第11回研究会 2017.12.1.立教大学 池袋キャンパス


ディヴィッド・エイブラム著
『感応の呪文:〈人間以上の世界〉における知覚と言語』を読む
~訳者・結城正美さんを囲んで~

上妻世海、山田悠介、奥野克巳、野田研一

日時 2017年12月1日(金)10:30~18:10
場所 立教大学12号館2階
ミーティングルームA,B MAP
備考 問い合わせ
奥野克巳 katsumiokuno[]rikkyo.ac.jp
     []を@に代えてください。
〈人間以上 more-than-human〉という言葉をいまから20年以上前に用いて、今日の人間的なるものを超えた人文学、人間以上の人文学を先取りしたディヴィッド・エイブラムの『感応の呪文:〈人間以上の世界〉における知覚と言語』が、このたび、結城正美さん(金沢大学教授)によって翻訳され、水声社から刊行されました。訳者の結城正美さんをお招きして、環境人文学のこの重要著作を読み、内容について理解を深めたいと思います。

10:30~10:40   イントロダクション、進め方など
10:40~11:10   上妻世海(文筆家、キューレーター)☞序~第3章、9頁~130頁
11:10~12:10   質疑、ディスカッション
12:10~13:10   昼食休憩
13:10~13:40   山田悠介(東洋大学非常勤講師)☞第4章~第5章、131頁~236頁
13:40~14:40   質疑、ディスカッション
14:40~15:00   休憩
15:00~15:30   奥野克巳(立教大学教授)☞6章~結び、237頁~353頁
15:30~16:30   質疑、ディスカッション
16:30~16:40   休憩
16:40~18:10   コメント 野田研一(立教大学名誉教授)
           その後、総合ディスカッション

第11回研究会レポート

 それぞれのパートが、3人のレヴューアー(上妻世海氏、山田悠介氏、奥野克巳)によって整理され、感想や疑問などが述べられた後に、訳者である結城正美氏からの応答がなされた。そのようにして、この本の持つ可能性や課題、細かい術語使用などを含めた論点が出され、情報・意見交換が行われた。その後、野田研一氏から全体にわたるコメントが呈示され、参加者全員で総合的なディスカッションが行われた。休憩時間を含め、8時間の長丁場にわたる研究会であった。

 パーソナルな序論と理論的な序論が置かれた最初のパート(序~3章)が、まずはレヴューされた。パーソナルな序論では、旅人であり、手品師である著者が、インドネシアやネパールなどの「口承文化」での直接的な経験を、近代以降の文明化された社会に持ち帰った後に、その経験を振り返って考えてみるという手続きのうちに始められた。続く理論的な序論で、その点に関して、理論的な糸口を著者は、人間と自然、主体と客体を分断し、能動と受動の別に分けられることにより独我論に陥ってしまった科学的な西洋思考の解決を見いだそうとした現象学に求めている。現象学は、私たちの生きる世界の本質を問う学問だからである。その先に、主体と客体の移行性と可逆性を、知覚するものが知覚されるものであると考えたメルロ=ポンティの「肉」の思想の重要性を見いだしている。こうしたレヴューに対し、結城氏は、エイブラムは、観察者から経験する者へ、さらには沈黙とともにある自然へと進めていくというふうに、書き方を工夫しているのではないかと応じた。また、障壁や膜という言葉が使われる一方で、多孔が開いて、人間と人間以上の世界が流動するというイメージが主題になっているのではないかという見通しを語った。

 続いて(4,5章では)、言語の問題が扱われる。自然そのものが自らを表現しうる口承文化には形式的な書記体系がなく、そこではアニミズムないしは融即的経験が主流であった。その後、表音文字が出現し普及するにつれ、自然は声を失い始めるが、その後、アニミズムは必ずしも完全に失われてしまったわけではない。口承文化に対比される文字文化では、自己再帰的なア二ミズムの様態が支配的になった。自然との間で交わされていた「呪文(スペル)」は「文字を綴る(スペル)こと」により、人間自身の力として経験されるようになったのである。そのようにして、伝統的なアニミズムは、実は、近代以降の我々の社会にも残存している。ディスカッションでは、漢字の書家の筆法の中に残る自然的要素、文字を介してこその人間と人間以上の世界とのコミュニケーションなどをめぐる問題が取り上げられるとともに、アニミズムそれ自体が文字文化では完全に失われてしまったのではないというエイブラムの主要な論点に関して、活発な議論が行われた。

 最後(6章~結び)で、著者は、場所と物語が分かれていなかった口承文化が、文字のテクノロジーによって切り離される経緯が、時間と空間が数学と言語表記によって分離される流れとパラレルであるという見通しを示した上で、その点を探るために、ハイデガーやメルロ=ポンティを召喚している。その上で、地面(空間)と地平(時間)が区別されることなく混ざり合い、深みと奥行きを持っていた感覚世界の本源を射程に収めている。エイブラムは、それが文字化によって失われた過程を知るためには、「空気」について考えるというアイデアを提起する。風や息や空気はかつて空っぽではなく力があった。息とは母音であり、最初作られたアルファベットには母音がなかった。ヘブライ語では、子音に外部の息が吹き込まれて意味が与えられた。その後、子音と母音からなるギリシア語が成立し、息=空気から霊的な奥行きが取り除かれる。母音を加えることにより、人間と人間以上の世界に壁ができ、人間の言語は自己再帰的なものとなったのである。結城氏は、ヘブライ語で子音表記の実用は、息の吸い込みと息の吐き出しに連動しており、そのことが、風や空気が出て入り、入っては出るという自然の律動とパラレルであるが、そのアイデアがエイブラムのオリジナルかどうかははっきりしないと指摘した。また、合理的思考を促すことになったギリシア交易の開始、交感と融即論の関係などに関して、意見・情報交換がなされた。

 コメンテータの野田氏からは、まず、この本の日本語訳の素晴らしさに関して指摘がなされた上で、本書には、時間と空間、主体と客体の意味が失効する世界が描かれているという大きな見通しが語られた。また、「真に生態学的なアプローチ」とは、私たちの注意を、知覚できる現在である感応的な世界から逸らすものであってはならないのだというエイブラムの主張が取り上げられた。その後、参加者を含め、全員によるディスカッションでは、文化人類学から見た本書における民族誌データの扱い、人間以上や人間を超えるものというタームをめぐる問題、アニミズム論、融即という用語、パルパラビリティ(触知可能性)、本作品の文学への外挿…などをめぐって活発な議論が行われた。

 本研究会には、のべ23名の参加があった。





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