『法学雑誌』49巻1号, pp.1-29.
(有斐閣、2002年)

国民と民族の切断

―外国人の参政権問題を巡って―

瀧川 裕英


第一章 序論
第二章 論点整理
第三章 民族と国民
第四章 課題

第一章 序論

 外国人の参政権問題は、国家論の現代的変奏である。すなわち、「国民」とは何か、「国家」とは何か、という古典的な問題を裏面から論じているのが、外国人の参政権問題である。その意味で、近時論争的空白であり続けた国家論は、外国人の参政権問題に仮託して議論されてきたということができる。

 本稿で私は、外国人の参政権問題が国民論・国家論であるとの認識のもとに、外国人の参政権問題を論じることを通じて「国民の位置」を明らかにしたい。その際、外国人の参政権問題に関して、従来等閑視されてきた、にもかかわらず重要な論点を追加する。その論点とは、民族概念と国民概念の連関の問題である。この論点を明示的に追加することで、従来の議論の対立軸とは異なる別の対立軸こそが、論じられるべき重要な対立軸であることを示したい。

 このために、まず、従来の議論で扱われてきた論点と到達点を確認する(第二章)[*1]。そこでは、従来議論されてきた論点を十点に整理し、考察する。その十点とは、T.国際的潮流、U.納税、V.戦後責任、W.憲法の文言、X.国家への忠誠、Y.国家と地方、Z.参政権資格、[.被選挙権、\.外国人諮問機関、].在外日本人である。次に、民族と国民の連関問題を考察し、その考察が外国人参政権問題にどのような含意を有するかを検討する(第三章)。

 「外国人の参政権」を巡る議論は、国政選挙・地方選挙、選挙権・被選挙権、公務就任権、住民投票などの領域に及ぶが[*2]、従来は外国人の地方選挙権問題を中心的論点として、主に憲法学において論じられてきた。この外国人の地方選挙権問題が盛んに論じられるようになった一つの契機が、最高裁判所の平成七年二月二十八日判決である[*3]。最高裁判所はその判決で、「我が国に在留する外国人のうちでも永住者等(…中略…)について」、「法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではない」と判示した。

 長尾一紘によれば、外国人の参政権問題について、憲法解釈論としては、(1)憲法上要請されており、外国人に参政権を付与しないことは違憲であるとする「要請説」、(2)憲法上禁止されており、外国人に参政権を付与することは違憲であるとする「禁止説」、(3)憲法上いずれの選択肢も許容しており、外国人に参政権を付与しないことも外国人に参政権を付与することも合憲であるとする「許容説」に区分することができる[*4]。

 この区分に従えば、最高裁判所の立場は「許容説」の立場を採用したものと言える。この判決以前は、学説の多数が禁止説であったが、この判決以後、学説の多数も許容説を採用するようになったとされる[*5]。

 しかし、本稿では外国人の参政権問題を憲法の解釈問題として扱わず、「外国人に参政権を付与すべきか否か」をめぐる問題として扱う。すなわち、(a)外国人に参政権を付与するべきであるとする「肯定説」と、(b)外国人に参政権を付与するべきでないとする「否定説」の対立として問題を捉える。注意すべきなのは、要請説と肯定説、禁止説と否定説がそれぞれ対応しているわけではない、という点である。憲法解釈論として要請説を採用したとしても、否定説を採用することは論理的に可能である。その場合には、外国人に参政権を付与することを要請する憲法を改正すべきであるという結論を支持することになる。同様に、禁止説を採用しつつ肯定説を採用することも論理的に可能である。このように、肯定説と否定説の対立は、要請説・禁止説・許容説の対立と内在的に連関していない。本稿では、外国人の参政権問題を、より直截に肯定説と否定説の対立という構図の中で論じていく。

第二章 論点整理

T.国際的潮流

 外国人の参政権を巡る問題が議論され、肯定説が主張されるようになった大きな時代的背景の一つとして、EU(ヨーロッパ連合)の動向を挙げることができる。EC(ヨーロッパ共同体)は、一九九二年に締結されたマーストリヒト条約で、構成国内の外国人の地方参政権を定めた。その結果、EU市民は、国籍を有しない構成国に住所を有している場合に、自治体選挙における選挙権及び被選挙権が与えられることになった[*6]。

 肯定説は、このようなEUの動向に依拠しつつ、さらにはEU以外の北欧諸国、オーストラリア・ニュージーランド・カナダなどの英連邦諸国の動向を受けて、日本でも、外国人に対して参政権が付与されるべきであると主張する。

 しかし、このような議論に対しては、否定説から次のような反論が可能である[*7]。

 第一に、現在、外国人に対して参政権を認めている国は、世界の中で二十か国余りだとされる[*8]。すなわち、世界の国々の中で一割程度が認めているに過ぎない。アメリカ・中国・韓国など日本と関係の深い国々では、基本的に認められていない[*9]。

 第二に、より重要なこととして、EUでも一般的な外国人に対して地方参政権を与えている国は実は少数である。確かに、スウェーデン・デンマーク・オランダなどの国では、国籍に関わりなく一定の定住要件に従って地方参政権が与えらえる。しかし、フランス・ドイツ・イタリアといったEUの主要国では、EU加盟国の国民に限って、地方参政権が与えられる。すなわち、日本のようなEU非加盟国の国民に対しては、たとえ永住資格があろうと地方参政権は与えられない。英連邦諸国も、基本的には英連邦諸国民に対してのみ地方参政権を与えているに過ぎない。このように、一般的な外国人に対して地方参政権を与える国は、EU加盟国を含めてごく少数なのであるから、それが国際的潮流であるとは到底言えず、それに依拠して日本における肯定説を擁護する議論をすることはできない。

U.納税

 肯定説の論拠として、永住外国人も納税義務を果たしているのであるから参政権も与えられるべきであると主張されることがある。この論拠は、学問レベルの議論としてよりも、一般レベルの議論で有力に主張されている。

 このような納税を根拠とする参政権の肯定は、アメリカ独立革命のスローガンである「代表なければ課税なし(No Taxation without Representation)」という主張に淵源を持つ。納税という義務を果たしているのであるから政治参加への権利も認められるべきである、というこのような主張が、直感レベルで説得力を持つことは否定できない。

 しかし、このような議論に対しては、否定説から次のような反論が可能である。納税と結びつくのは、参政権ではなく、むしろ国防・治安・教育・福祉などの行政サービスである[*10]。端的に言えば、参政権は納税の対価ではない。仮に、参政権が納税の対価であるとすると、現在日本国民の四人に一人と言われる所得税の課税限度額以下の人や、十分な収入がないため消費税も十分払えない人は、参政権を与えられないことになる[*11]。

 そもそも、参政権が納税の対価であるという考え方は、納税の有無・納税額の多寡に関わりなく選挙権が与えられる「普通選挙制度」の意義を完全に見逃している。日本において選挙権は、一八八九年には、二十五歳以上の男子で十五円以上の直接税納税者に限定された権利であったが、一九二五年に、普通選挙法施行により納税資格が廃止され、一九四五年に、婦人参政権を含んだ完全な普通選挙制度が導入された。すなわち、納税と参政権を連関させる考え方は、納税と参政権の連関を切断した普通選挙制度の意義を無視し、納税と参政権を再び連関させようとする、時代に逆行する考え方である。

V.戦後責任

 肯定説の論拠として、戦後責任の一環として永住外国人に参政権を与えるべきであると主張されることがある。このような意見に関しては、与党自民党内部でも共感する意見が見られ、政治的に有力に主張されている。

 この問題に関しては、まず客観的認識を持つことが必要である。二〇〇〇年の統計によれば、永住者約六十六万人、そのうち出入国管理特例法に基づく特別永住者(在日韓国・朝鮮人)は約五十一万人である。現在、毎年一万人近い在日韓国・朝鮮人が帰化している。特別永住者は在留資格に制限がなく、五年以内なら韓国と日本の間を自由に往来可能である。在日韓国・朝鮮人は、日本では参政権を与えられていないが、国籍保有国では選挙権・被選挙権を有している[*12]。現在、北朝鮮には在日の国会議員が七人いると言われている。

 このように在日韓国・朝鮮人は、日本国内における外国人の構成比ではその割合を低下させているが、依然として大きな存在であり、外国人の参政権問題が論じられる場合の主要な想定事例となっている。

 こうした在日韓国・朝鮮人についての参政権肯定説は、次のような歴史に依拠する論拠を提出している。アジア太平洋戦争前は、強制連行等により日本内地に在住していた朝鮮人は参政権を持っており、国政・地方の区別もなく、選挙権・被選挙権とも認められていた。さらに、ハングルによる投票も可能であった[*13]。しかし、女性に対する参政権付与の改正として記憶されている一九四五年の衆議院議員選挙法改正は、同時に、戸籍法の適用を受けない者(=旧植民地出身者)の選挙権及び被選挙権が停止される改訂でもあった。その主な理由は、当時在日朝鮮人は日本国内に二〇〇万人もいて、天皇制廃絶を叫ぶ可能性があるためであったとされる[*14]。

 その後、一九五二年のサンフランシスコ講和条約の発効に伴い、同年の法務府(現・法務省)民事局長通達により、在日朝鮮人は当事者の意思とは無関係に日本国籍を喪失した。このように、日本に「強制連行」[*15]されたにもかかわらず、国籍選択権も付与されずに日本国籍を喪失した結果、参政権を失ったことは問題であるとされる。

 しかし、このように戦後責任を論拠とする議論に対しては、否定説から次のような反論が可能である。

 第一に、戦後責任は基本的には、国家による謝罪及び賠償によって果たされるべきものである。国際法に違反した国家の行為に対して、被害を受けた人に参政権を付与することによって戦後責任を果たすというのは、通常の責任の果たし方ではない。

 第二に、仮に戦後補償の論理が妥当するとしても、その論理を適用できるのは在日一世のみであり、二世・三世には適用することはできない。すなわち、戦後補償の論理が適用可能であるのは、強制的に日本に連行されたにもかかわらず、国籍選択権も付与されずに日本国籍を喪失した結果、参政権を失った当の個人のみである[*16]。その個人の子孫は、強制的に日本に連行されたわけでもなく、非自発的に日本国籍を喪失したわけでもないため、戦後補償の論理を適用することが不可能である。

 第三に、これに対して肯定説の側から、在日韓国・朝鮮人の二世・三世は、自らが強制的に日本に連行されたわけではないとしても、日本社会で現に民族学校差別や就職差別などの民族差別を被っているのであるから、その補償として参政権が付与されるべきであるという主張することも考えられる。この主張自体妥当するか否か慎重に検討されるべきであるが、注意すべきなのは、仮にこの主張が妥当したとしても、この論拠が適用されるのは在日韓国・朝鮮人だけではなく、民族差別を被っているその他の外国人に対しても適用されるということである。したがって、在日韓国・朝鮮人のみに参政権を付与すべきであるという主張の論拠は、何ら存在しない。

W.憲法の文言

 さらに、憲法の文言との関係では、次のように論じられている。
日本国憲法は、十五条一項で「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。」と規定し、九十三条二項で「地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。」と規定する。

ここで主に問題となるのは、第一に、十五条一項の「国民」と九十三条二項の「住民」の使い分けにどのような意味があるのか、第二に、十五条一項の国民「固有の」権利とはいかなる意味か、という二つの点である。

 肯定説は、第一の点について、十五条一項では「国民」固有の権利、九十三条二項では「住民」が直接選挙する、と使い分けており、これは、地方レベルの選挙では必ずしも国民ではない住民が選挙するという意味であると主張する[*17]。また、第二点について、国民「固有の権利(inalienable right)」とは国民から「奪ってはならない」権利という意味であり、国民から選挙権を奪わなければ永住者等に選挙権を付与しても十五条一項の字義に反しないとする[*18]。

 このような肯定説に対して、否定説は、第一点について、九十三条二項の「住民」とは当然に「日本国民たる住民」であると主張する。この点については最高裁判決でも認められており、地方自治法十一条以下でも「日本国民たる普通地方公共団体の住民」として明記されている[*19]。また、第二点について、「固有の権利」とは外国人等に「譲り渡すことができない」権利という意味であると主張する[*20]。

X.国家への忠誠

 否定説の論拠として、帰化していない者に参政権を与えることは、国家への忠誠の点で疑問が残るという考え方が提出されることがある[*21]。

 その論拠によれば、いつでも本国に帰還することが可能で国家の運命に責任を持たない外国人は、国家への忠誠の点で問題があるから、国家運営を任せることはできない。さらに、外国人に参政権を付与した場合、本国への忠誠義務と矛盾しないか、あるいは両国間で対立が生じた場合、特に戦争の場合にどうするかといった問題も生じるとされる。

 このような議論に対しては、肯定説からは、永住国に忠誠を誓う外国人もいるし、外国政府と通謀する者は同国人の中にもいるという反論が可能である。すなわち、国籍取得は当該国家への忠誠を一応示しうるが、基本的には国籍保有と国家への忠誠は別次元の問題である。

Y.国家と地方

 国家と地方公共団体の関係をどのように捉えるのかは、最も重要な論点の一つである。地方公共団体を、国家とは一定程度独立し分離したものとして捉えるか(以下、「分離説」と呼ぶ)、国家と区分することはできず一体のものとして捉えるか(以下、「一体説」と呼ぶ)が、問題への回答に重要な影響を与える[*22]。

 ここで注意すべきなのは、「肯定説−否定説」と「分離説−一体説」の問題軸の関係である。否定説は概ね一体説を採用する。すなわち、国民主権の原理から国政について外国人の参政権は認められないが、国政と地方自治が一体である以上、地方参政権についても認められないとする。これに対し、肯定説が分離説を採用するわけでは必ずしもない。確かに、肯定説論者の多数は分離説を採用して、国政では参政権は認められないが[*23]、国政とは性質の異なる地方自治においては参政権が認められるべきであると主張するが(以下、「肯定−分離説」と呼ぶ)、肯定説を採りつつ一体説を採用して、地方自治について参政権が認められるべきであり、地方自治と厳密には区分できない国政についても認められるべきであるという主張も可能である(以下、「肯定−一体説」と呼ぶ)[*24]。学説上は、「肯定−一体説」と「否定−一体説」を合わせた「一体説」が、「分離説」と比して有力であるように思われる。
 したがって、肯定説が分離説と、否定説が一体説と対応するわけでは必ずしもないが、ここでの論点を明確にするために、以下では「肯定−分離説」と「否定−一体説」の対立に絞って考察する。

 肯定−分離説は、生活に密着していることについては、当事者に決定への参加を認めるべきであると主張する。すなわち、永住外国人に対しても、自らの生活に直接関わる事柄に関しては、その事柄の決定過程への参加を認めるべきであるとする。例えば、まちづくりなどの身近な課題に関しては、現にそこに居住する者が決定することにより妥当な結論が得られるとする。

 また、国民主権との関連では、地方自治体の行為は、法律に基づいて「法律の範囲内において」(憲法九十四条)行われる以上、正当性の淵源が国民に存するという国民主権の契機がなくなるわけではないと主張する[*25]。

 このような肯定−分離説の主張に対して、否定−一体説は国政と地方自治は簡単には分けられないと主張する。国政と地方自治を厳密に区別できない以上、国政と同様に地方自治に関しても外国人に任せることはできない。例えば、周辺事態法によれば、国が自治体に空港・港湾施設の使用、公立病院での傷病者の治療などを要請しても、地方自治体の首長は拒否できるのであり、外国人の影響を受けた自治体首長の存在は国の安全に重大な障害を与えると主張する[*26][*27]。

 また、生活に密着した身近な事柄であるか否かは、国政と地方自治の区別と無関係である。例えば、交通関係のルールは、生活に密着した身近な問題であるが、国の法律である道路交通法で規定されている。さらに、地方自治体の行う事務の中には、警察などの権力的取り締まり事務も含まれている。したがって、このような区分によって国政と地方自治を区分することはできない。

Z.参政権資格

 肯定説を採用する場合、外国人のうちどのような要件を満たす外国人に参政権を付与するのかという問題が生じる。この点に関してT・ハンマーは、三つの入り口モデルを提示している[*28]。第一が、短期滞在許可に関する入国審査、第二が、永住許可に関する審査、第三が、帰化に関する審査である。肯定説が外国人にも参政権を付与すべきであると主張するときの「外国人」とは、第二の入り口を通過した「永住者」に限定されており、第一の入り口を通過していない「非正規滞在者」[*29]や、第一の入り口のみ通過した「短期滞在者」を含まないのが通常である。

 そうであるとするならば、永住許可の要件をどのよう規定するかが重要な問題となる。「出入国管理及び難民認定法」は在留期間の要件を特に規定していないが、日本の実務は、一般原則として「十年以上継続して本邦に在留していること」を要件としているとされる。国籍取得要件が五年程度であることとされているのと比較すると、永住要件が帰化要件よりも長いのは異例のことである。また、十年という要件は諸外国と比べてかなり長期になっている[*30]。

 肯定説からは、より多くの定住外国人に永住資格を付与し参政権を与えるべきであるとの考慮から、現行の十年では長すぎるのであり、せいぜい五年ないし三年にすべきであると主張することができる。

 これに対し、否定説は、参政権はあくまで国籍保有者のみに与えるべきであるとの考慮から、帰化要件の緩和によって定住外国人を国民に統合することで問題の解決を図ろうとする[*31]。

[.被選挙権

 被選挙権について否定説は、選挙権が認められない以上、当然被選挙権も認められないと主張する[*32]。また、国会議員は言うまでもなく、地方議会議員並びに地方自治体の首長の職務は、「公権力の行使」(いわゆる「当然の法理」)に該当するので、外国人には認められないと主張できる。

 このような否定説の議論に対して、肯定説からは次のような反論が可能である。まず、条例制定は「法律の範囲内において」(憲法九十四条)認められているに過ぎないから、地方議会の行為は国民主権の統制下にあり、地方議会議員について被選挙権を肯定することは国民主権原理に抵触しない。

 また、地方議会議員について、選挙権を肯定しつつ被選挙権を否定する理由は存在しない。諸外国の例を見ても、選挙権を肯定しつつ被選挙権を否定する例はほとんどない[*33]。選挙権を肯定するのであれば、被選挙権を肯定するほうが理論的に一貫している。

\.外国人諮問機関

 否定説から、参政権に代わる外国人の政治参加システムとして、外国人諮問機関が挙げられることがある。外国人諮問機関には様々な形態があるが、行政に外国人の意見を反映させるものとして、大阪市・川崎市・東京都などのいくつかの自治体で導入されている[*34]。

 しかし、肯定説からは、外国人諮問機関を参政権の代替物とすることに疑問を提示することができる。まず、外国人諮問機関では実効性が担保されない。諮問機関はあくまで諮問機関であり、最終的な決定権限がない以上、実効性の面で疑問がある[*35]。

 また、外国人諮問機関で十分であるとすることは、参政権が与えられ最終的な決定権限があることが持つ象徴的意義を過小評価するものであるという批判も可能である[*36]。参政権の価値として有権者数が多い場合には、自らの意見を決定に反映させる「反映的価値」は低下するが、社会の正式な一員として承認される「承認的価値」は低下しない。外国人諮問機関では、参政権の承認的価値の代替手段とはならない。

].在外日本人[*37]

 重要な論点であるにもかかわらず、十分議論が尽くされているとは言えない論点として、在外日本人を巡る論点を挙げることができる[*38]。二〇〇〇年の統計によれば、海外に三カ月以上居住する日本人有権者の総数は約五十九万人である。一九九八年、在外選挙実施のための「公職選挙法の一部を改正する法律(以下、在外選挙法)」が公布され、平成一二年(二〇〇〇年)五月以降の国勢選挙(衆議院議員選挙及び参議院議員選挙)について、海外に居住する有権者も海外で投票することが可能となった[*39]。但し、当分の間は衆議院も参議院も比例代表選出議員選挙に限られており、衆議院の小選挙区選出議員選挙及び参議院の選挙区選出議員選挙については、今後の課題として残されている[*40]。

 否定説はこのような動向を自らの論拠とすることができる。すなわち、たとえ外国籍であっても「住民に選挙権を」という肯定説の考え方は、日本国籍を有する在外日本人の選挙権を否定することになってしまう。

 この点は肯定説によってしばしば見逃されている。例えば、国家の政治的意思決定を行う「国民」を、形式としての国籍保有者ではなく、実質としての国家の領土内に住む住民として捉えることで、国民主権と外国人の参政権を整合させようとする見解がある[*41]。このような見解をとる肯定説は、在日外国人の参政権を句呈する一方で、在外日本人の参政権を否定する結論に至る。

 これに対して、肯定説もこのような動向を自らの論拠とすることが可能である。すなわち、在外日本人は、国政選挙には参加できるが地方選挙には参加できない。これは逆に言えば、地方選挙に参加すべき者はむしろその地域に現に住んでいる者であるということである。要するに、地方選挙権は、在外日本人ではなく在日外国人が有すべきである。

第三章 民族と国民

T.問題の構造

 こうした在外日本人を巡る議論が陰画的に暗示するように、以上のような従来の論争の底流にあるのが、「国民」観・「民族」観を巡る争いである。ここでは、従来の議論がいかなる国民観・民族観を背景としていたのかという点に着目して、問題の構造を明確化する。

 まず、参政権否定説には、次の二つの類型がある。

 第一に、主に日本国内の保守派の見解として、「参政権が欲しければ帰化をして日本人になるべきだ」ということが言われる。この見解は、参政権否定説の決まり文句として用いられる。(以下、「否定説1」と呼ぶ。)

 第二に、主に総連(=在日本朝鮮人総連合会)系の論者の見解として、「参政権を得ることは日本人になることであり、韓国人・朝鮮人のアイデンティティーを守れなくなる」ということが言われる。例えば金昌宣は、参政権の要求は同化に追いやる危険があり、「統一民族として生きる」という理念に反すると主張する[*42]。(以下、「否定説2」と呼ぶ。)

 これに対して、参政権肯定説からは、「外国人にも参政権を」ということが言われる。民団(=在日本大韓民国民団)系の論者はこのような見解が多いと言われるし、肯定説を採る憲法学者の根本にある発想もこのような見解である。例えば、辻村みよ子は、「国民とも住民とも異なる『市民権』概念を定立し、とくに『永住市民』を主権者=選挙権者に含めることで、国民主権原理を根拠に国籍保持者以外の主権行使を排除してきた議論をまず克服することが先決であろう」と述べる[*43]。

 ここで、議論を分析するために、次の二つのテーゼを導入する。

◆テーゼα「参政権=帰化(国民化)」
=「参政権は国民のみに付与される。外国人が参政権を得るためには、帰化しなければならない。」

◆テーゼβ「帰化=同化(同一民族化)」
=「帰化するためには同化しなければならない。帰化するということは同化するということである。例えば、日本国に帰化して日本国民となるということは、日本人になるということである。」

 この二つのテーゼを用いれば、次のように分析することができる。

 否定説1は、「参政権が欲しければ帰化をして(テーゼα)日本人になるべきだ(テーゼβ)」と主張しており、テーゼα・テーゼβともに肯定している。

 否定説2は、「参政権を得ることは日本人になることである(テーゼαとテーゼβの連言)」と主張しており、テーゼα・テーゼβともに肯定している。

 したがって、否定説1・否定説2はともにテーゼαとテーゼβを肯定しているのであり、したがって論理構造は同一である。両者の違いは、日本人としての民族的同一性に固執するか(否定説1)、韓国人・朝鮮人としての民族的同一性に固執するか(否定説2)の違いでしかない。

 他方、肯定説は、「国民でなくても参政権を認められるべきである」と主張しており、テーゼαを否定している。すなわち、参政権と国民の連関を切断することで、「非−国民の参政権」を肯定しようとしている。

 したがって、従来の論争は、テーゼαを肯定するか否定するかを巡って争われている。逆に言えば、従来の肯定説は、論点をテーゼαに絞ることで、暗黙の内にテーゼβを肯定してしまっている。このことは、否定説1に対する応答に現れている。「参政権が欲しければ帰化をして日本人になるべきだ」と主張する否定説1に対して、「帰化は、個人のアイデンティティーに関わる事柄であるので要求できない」とする応答は、「帰化するということは、従来の自分の民族的アイデンティティーを捨てて、新しいアイデンティティーを取得することである」ということを内包しており、テーゼβを肯定している[*44]。

 要するに、肯定説は、テーゼαに関しては否定説1・否定説2と激しく対立しながら、テーゼβを肯定することで、「帰化=同化」という想定を否定説1・否定説2と共有してしまっている。「ナショナリズムとは、政治的な単位と民族的な単位が一致すべきであるとする政治的原理である」というE・ゲルナーの定義からすれば[*45]、テーゼβを受容する否定説論者・肯定説論者とも言葉の真の意味でナショナリストであると言うことができる。否定説1論者が「自覚的なナショナリスト」であり、否定説2論者および肯定説論者が「隠れたナショナリスト」であるのは、微細な差異に過ぎない。

 しかし、問われるべきなのはむしろ、テーゼβのほうである。すなわち、従来の論争が暗黙の前提として共有してきた「帰化するということは同化するということである」というテーゼこそ、問題とされ批判されるべきなのである。

U.民族と国民

 樋口陽一は、自然の存在としてのエトノス(ethnos)と人為の産物としてのデモス(demos)の区別に基づきつつ、次の二つのモデルを提示している[*46]。

 第一は、「統合型モデル」である。それは、デモスとしての国民の一体性を強調し、公的な政治空間にエトノスを持ち込まない。

 第二は、「多元・共存型モデル」である。それは、複数のエトノス単位の共存を追求し、そのような諸単位を政治の領域でも積極的に位置づける。

 両者は、現代社会が差異に対する態度の典型である。その文脈でいえば、統合モデルはフランスを典型とする「普遍主義」に、多元・共存型モデル(以下では、「多元型モデル」と呼ぶ)はアメリカを典型とする「差異主義」に、それぞれ該当すると言えるだろう[*47]。

 この二つのモデルと、外国人の参政権肯定説および否定説が想定するモデルとを併せて表にすれば、次のようになる。

参政権=帰化差異の公的否認帰化=同化
否定説モデル
統合型モデル×
多元型モデル××
肯定説モデル××

 第一の分析項である「参政権=帰化」の項目は、先のテーゼαに該当する。この「参政権は国民のみが有するものであるか」という論点に関して、肯定説モデルはそれを否定するのに対し、他の三モデルは全てそれを肯定する。

 第二の分析項である「差異の公的否認」の項目は、「マイノリティーの差異を公的な政治空間で承認するか否認するか」という論点である。(ここでは、第一項と第三項と平仄を合わせるために、差異の公的承認ではなく差異の公的否認としている。)この論点に関して、否定説モデル・統合型モデルは差異を公的に否認する(したがって○)のに対し、多元型モデル・肯定説モデルは差異を公的に承認する(したがって×)。

 第三の分析項である「帰化=同化」の項目は、先のテーゼβに該当する。この「帰化するということは同化するということであるか」という論点に関して、否定説モデル・肯定説モデルはそれを肯定するのに対し、統合型モデル・多元型モデルはそれを否定する。

 この表は、「国家は差異に対していかなる態度を取るか」という観点から整序されており、上から下へ行くに従って、×印が増えるに従って、差異に対して寛容な態度をとっているといえる。

 この表による分析から判明することは、次の四点である。

 第一に、日本での議論は、フランス流の統合型かアメリカ流の多元型かという世界的な議論とは別の前提に立って行われている。すなわち、統合型か多元型かという議論は、帰化することは同化することであるというテーゼβを否定する前提の下で行われているのに対し[*48]、肯定説か否定説かという議論は、帰化することは同化することであるというテーゼβを肯定する前提の下で行われている。

 第二に、このような異なる前提の下ではあるが、差異の公的否認の論点は重なり合っている。すなわち、統合型が差異の公的承認を否定し多元型が差異の的承認を肯定するのと同様に、否定説が差異の公的承認を否定し肯定説が差異の公的承認を肯定している。

 第三に、注目すべき点であるが、多元型が外国人の参政権を肯定するわけではない。多元型にも様々な類型があるが、多元型の中で主流でありここで規定するような多元型は、国家の中で民族集団として承認されるためには国籍を持たねばならないと主張する。つまり、多元型は「異民族にも参政権を」という主張は行うが、「異国人にも参政権を」という主張は行わない。したがって、差異に対して敏感であったとしても(difference-conscious)、外国人の参政権が導出されるわけではない。

 第四に、ここから判明する重要な点として、肯定説はかなり異質な論理に基づいている。表から分かるように、否定説モデル・統合型モデル・多元型モデルは、いわば「差異に対する態度」という一つの軸におけるグラデーションをなしているのに対し、肯定説モデルはこのような軸とはねじれた論理空間に属している。このような肯定説の論理的整合性は問題にされてよい[*49]。

 ここでの論点は、民族と国民の概念規定を行うことでより明確となる。民族と国民をどのように規定するかは重大な問題であるが[*50]、さしあたり次のように規定することができる。

 まず、「民族」とは文化的・歴史的共同存在である。民族は、共通の文化伝統・共通言語・生活様式・儀式慣習を持つ。民族は、主観的アイデンティティー及び客観的属性によって弁別される。

 これに対して、「国民」とは政治的共同存在である。「主権者としての国民」とは、このような政治的共同存在のことを示している。この意味での国民は、文化的歴史的共通性を本質的構成要素としない。国民は、国籍によってのみ弁別される。

 このように規定される国民は、民族と峻別しなければならない[*51]。民族を国民と結びつけることで、国民を実体化すべきではない。国民が共有する文化的歴史的実体は存在しない。国民とは、むしろ機能的・形式的な存在である。

 このような規定から導出されるのは、帰化(=国民化)は同化(=民族化)ではないということである。帰化して国籍を取得しつつ、自らの従来の文化的・歴史的出自を維持することには、何の問題もない。異なる民族も民族であっても同じ国民であるうる。例えば、朝鮮民族としての民族的アイデンティティーを持ちつつ日本国籍を有する「Korean Japanese 韓国系日本国民」は、なんら概念矛盾ではない[*52]。一個人の中に、文化的アイデンティティーたる民族性と政治的アイデンティティーたる国民性が同時に存在することは十分可能である。

 国民とは、政治的共同存在であり、その意味であくまで機能的な存在なのであるから、参政権と国民を切断することは妥当でない。すなわち、テーゼαは肯定すべきである。参政権肯定説はテーゼαを否定しているが、そのことで浮かび上がる「参政権とは切断された国民」とは何か。そのようにして浮遊する「国民」を実質的な民族概念が埋めてしまう危険性が、逆に存在している[*53]。国民は、あくまで形式的・機能的に把握されるべきである[*54]。

第四章 課題

T.変革の方向性

1.同化と帰化の切断
 以上のような国民観からすれば、変革の方向性も自ずから決まってくる。すなわち、「外国人であるにもかかわらず政治に参加する」ではなく、「異なる民族的出自を持つにもかかわらず同じ国民であるがゆえに政治に参加する」方向性である。

 そのために必要なことは、外国籍の者に参政権を付与することではなく、国籍を取得して帰化した者に対して同化を強要しない文化である。例えば、日本国籍を取得することはいわゆる「日本人になる」こととは似て非なるものであることを教育することである。したがって、国籍取得に際して、日本名を呼称するように、間接的に強制したり、推奨したりすることは許されない[*55]。

 このように、国民と民族の結びつきを維持したまま「外国人に参政権を」というよりは、国民と民族の結びつきを明快に切断することの方が重要である[*56]。

2.血統主義から出生地主義へ
 このように同化と帰化を切断して捉える考え方は、血統主義を否定し出生地主義を採用する考え方と親和的である。すなわち、政治的共同存在である「国民」を、人種的血統という「民族」的要素から切断するためには、血統主義ではなく出生地主義を採用する方が望ましいと言える[*57]。日本では現在血統主義が採用されているが、出生地主義の採用が積極的に検討されるべきである。

3.差異の中の差異
 その際注意すべきことは、「同化を強要しない」という場合に、マイノリティー文化への同化も含むということである。すなわち、個人はマジョリティー文化へ同化することを強制されないだけでなく、マイノリティー文化へ同化することをも強制されない。一般に、多文化主義には、文化を固定化する傾向が内在する。このように、差異集団の中に差異が存在することを確認していくことは決定的に重要である。

U.残された課題

 以上の考察から、外国人の参政権問題については、基本的にはそれを否定すべきであることが論証された。しかしなお、次の課題は残されている。

 第一に、国政と地方の関係をどのように捉えるべきかという問題である。この問題についてはすでに第二章で簡潔に扱ったが、なお考察されるべき問題が残っている。第三章の考察によって、国政選挙については参政権は基本的に否定されるべきであるとの結論が導出されるが、仮に国政と地方自治が分離可能であるならば、地方自体の選挙については参政権を肯定することも可能となる。

 第二に、二重国籍の問題がある[*58]。参政権は国籍保有者である国民にのみ付与されるべきであるとする本稿の主張からしても、二重国籍者であっても当然に参政権は付与されることとなる。問題は、二重国籍者の存在をどのように捉えるかという点にある。この点に関して、T・ハンマーは、二重国籍が引き起こすほぼ唯一の問題は兵役義務であり、二重国籍を認めることにはそれを超える利点があると主張している[*59]。二重国籍の肯定は、国籍唯一の原則の否定であり、理論的・実践的に様々な問題が存在する思われるが、積極的に検討していく必要がある。

 第三に、この点と関係するが、そもそも「国民」・「国家」をどのように構想するのかという問題がある。兵役義務のない日本において、日本国民であるということは、日本国の参政権を有すること、日本国のパスポートを持つこと以上の意味を持つのか。ある国家の国民であるとは、どのような実質を有するのか。個人は、ある国家の国民であることによってどのような責務を負うのか。国家の必要性はどこにあり、現在のような国民国家システムであることにどのような合理性があるのか。これらは、現在正面から論じられることの少ない「国家論」である[*60]。「外国人の参政権」問題は、戦争責任論と並んでその場を提供するものである[*61]。本稿が提示したのは、このような「国家の論じ方」である。


[*1] 第二章で検討する議論は、外国人の参政権問題のうち専ら外国人の選挙権・被選挙権の問題であり、公務就任権については検討しない。
[*2] 二〇〇二年に入り、住民投票に関して、滋賀県米原町が自治体合併問題に限定して永住外国人に投票資格を与えて注目されている。参照、二〇〇二年四月一日各紙朝刊。さらに、愛知県高浜市がテーマを限定せずに一般的に永住外国人に投票資格を与える条例改正を二〇〇二年六月二四日に行い、同年九月一日より施行されることとなった。参照、愛知県高浜市公式ホームページ http://www.city.takahama.aichi.jp/。
[*3] 『判例時報』一五二三号四九頁。
[*4] 参照、長尾一紘『外国人の参政権』(世界思想社、二〇〇〇年)九四頁。
[*5] 参照、長尾一紘『外国人の参政権』三頁。
[*6] EU市民の参政権をめぐるドイツの議論を紹介・検討するものとして、参照、長尾一紘『外国人の参政権』第六章。
[*7] 一般に、「国際的潮流」・「歴史の流れ」に依拠して自らの立場を正当化しようとする議論に対しては、「なぜその潮流が正しいと言えるのか」という問いを投げかけることができる。つまり、「国際的潮流が正しい」という前提がなければ、「その潮流に従うべきである」という結論を導くことはできない。例えば、帝国主義時代に植民地を獲得することが国際的潮流であったとしても、植民地を獲得することが正しいという結論を導くことはできない。
[*8] 参照、百地章「憲法と永住外国人の地方参政権―反対の立場から」『都市問題』第九二巻第四号三三頁。
[*9] 各国のデータとして、参照、近藤敦「永住外国人の地方選挙権をめぐる最近の論点」『法学セミナー』二〇〇〇年一二月号六〇頁。近藤敦によれば、アメリカのごく一部の自治体で外国人の地方参政権が認められているようである。もっとも、アメリカの場合は、かなり徹底した出生地主義を採用していることが念頭に置かれねばならない。参照、近藤敦「永住外国人の地方選挙権をめぐる最近の論点」五九頁。
[*10] 参照、長尾一紘『外国人の参政権』五〇−五二頁。
[*11] このように、社会保障上の権利が納税義務に対応すると考えるならば、生活保護の適用対象を国民と規定し、永住外国人に対して生活保護法を「準用」しているに過ぎない現行法及びその運用は改められるべきであるということになる。参照、林弘子「最低生活保障と平等原則―外国人への適用を中心に―」日本社会保障法学会編『講座社会保障法第五巻 住居保障法・公的補助法』(二〇〇一年、有斐閣)一三四頁、一三九−一四一頁。
[*12] 理論上は、選挙権・被選挙権を有しているが、仮に在外者の選挙権・被選挙権に関する法律が整備されていないために、現実的に権利を行使できない場合には、韓国あるいは北朝鮮でそのような法律が整備されていないことこそが問題なのであり、日本で参政権を付与すべきだという結論がすぐに導かれるわけではない。
[*13] 参照、田中宏「在日韓国・朝鮮人市民と地方参政権」『都市問題』第九二巻第四号三七頁。
[*14] 参照、田中宏「特別永住外国人の国籍取得問題」『法律時報』七三巻一一号八七頁。
[*15] この間の事情について、参照、吉田邦彦「在日外国人問題と時効法学・戦後補償(4)」『ジュリスト』一二一七号一〇〇−一〇七頁。
[*16] 「一方的な国籍喪失に対する戦後補償」という論理ではなく「強制連行に対する戦後補償」という論理からすれば、選挙権が付与されるべきなのは、強制連行された朝鮮人に限定されてはならず、強制連行された中国人にも当然付与されることになる。中国人強制連行に関して、参照、杉原達『中国人強制連行』(岩波書店、二〇〇二年)。
[*17] 参照、近藤敦『外国人の人権と市民権』(明石書店、二〇〇一年)一一四頁。
[*18] 参照、近藤敦「永住外国人の地方選挙権をめぐる最近の論点」五八頁、近藤敦『外国人の人権と市民権』一一二−一一三頁。一九五三年に出された政府見解でもこのことが確認されているとされる。
[*19] 参照、百地章「憲法と永住外国人の地方参政権―反対の立場から」二六頁。
[*20] 参照、百地章「憲法と永住外国人の地方参政権―反対の立場から」三二頁。百地は、参政権を含めて基本的人権は「奪うことができない」のであり、参政権について敢えてこのような規定が置かれたのは、「譲り渡すことができない」ことを明示するためであるとする。
[*21] 参照、百地章「憲法と永住外国人の地方参政権―反対の立場から」二八頁。
[*22] 平成七年二月二十八日の最高裁判決は、「地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素を成す」としており、一体説に立つ。
[*23] 国会議員の選挙権を否定するものとして、参照、平成五年二月二六日最高裁判決『判例時報』一四五二号三七頁。
[*24] 「一体−肯定説」の例として、参照、Tomas Hammar, Democracy and the Nation State (Ashgate, 1990) トーマス=ハンマー著・近藤敦訳『永住市民と国民国家―定住外国人の政治参加―』(明石書店、一九九九年)二五四頁。
[*25] 参照、廣田全男「憲法と永住外国人の地方参政権―賛成の立場から」『都市問題』第九二巻第四号二三頁。
[*26] 参照、百地章「憲法と永住外国人の地方参政権―反対の立場から」三〇頁。
[*27] 長尾一紘はこの点をふまえて、地方議会議員ならともかく自治体首長についての参政権は認められないと主張している。参照、長尾一紘「永住外国人の地方参政権」『都市問題』第九二巻第四号。
[*28] 参照、トーマス=ハンマー『永住市民と国民国家―定住外国人の政治参加―』三四−三九頁。
[*29] いわゆる「不法滞在者(illegal residents)」ではなく、「非正規滞在者(irregular residents)」という用語を使うべきことについて、参照、近藤敦『外国人の人権と市民権』二八六−二八七頁。
[*30] 参照、近藤敦『外国人の人権と市民権』二四五−二四七頁。
[*31] 各国の帰化申請の傾向を紹介するものとして、参照、トーマス=ハンマー『永住市民と国民国家―定住外国人の政治参加―』第六章。
[*32] この点に関する常識的理解とは逆に、選挙権を与えることは否定するが、被選挙権を与えることは肯定するという議論もある。この議論によれば、国民主権から見て決定的なのは、選挙権であって被選挙権ではないので、国民によって選出される者は外国人であってもよいという結論になる。このようなドイツでの議論を紹介するものとして、参照、長尾一紘『外国人の参政権』一〇〇−一〇三頁。
[*33] 諸外国の状況を紹介するものとして、参照、近藤敦「ヨーロッパ諸国の地方レベルにおける外国人の被選挙権」『法律時報』七三巻一一号。
[*34] 外国人諮問機関の諸形態の紹介として、参照、樋口直人「外国人の行政参加システム―外国人諮問機関の検討を通じて」『都市問題』第九二巻第四号六九頁以下。
[*35] 参照、樋口直人「外国人の行政参加システム―外国人諮問機関の検討を通じて」七四頁以下。
[*36] 参照、近藤敦『外国人の人権と市民権』一一七頁。
[*37] 正確には「在外日本国民」というべきであるが(第三章参照)、ここでは通例にならい「在外日本人」と呼んでおく。
[*38] この問題を扱う論文として、参照、戸波江二「在外日本国民の選挙権」『法学教室』一六二号。戸波は妥当にも、「違憲の度合いが強いのは、『日本に住んでいる外国人』の選挙権の問題ではなく、『外国に住んでいる日本人』の選挙権の問題である」と指摘している。同、四二頁。
[*39] 法律改正前に提訴された在外日本人選挙権違憲訴訟の判決として、東京地裁一九九九年十月二十八日判決『判例時報』一七〇五号五〇頁。
[*40] http://www.music.qub.ac.uk/~tomita/vote/mfa-tsuutatsu.html(2002.7.1)
[*41] 参照、後藤光男『共生社会の参政権』(成文堂、一九九九年)一六四−一六五頁。同様に、「国籍」ではなく「生活実態」によって国民の範囲を画定しようとするものとして、参照、浦部法穂「日本国憲法と外国人の参政権」徐龍達編『定住外国人の地方参政権』(日本評論社、一九九二年)六〇−六一頁。
[*42] 参照、金昌宣「在日朝鮮人『参政権』要求の検討―”同化”に追いやる危険」『世界』六〇〇号、二六二−二六八頁。
[*43] 辻村みよ子「選挙と『市民の意思形成』」『公法研究』五九号一四八頁。同旨、浦部法穂「日本国憲法と外国人の参政権」徐龍達編『定住外国人の地方参政権』(日本評論社、一九九二年)、江橋崇「定住外国人の地方参政権と民主主義」徐龍達編『共生社会の地方参政権』(日本評論社、一九九五年)。
[*44] この点は学術論文で明示的に述べられることは少ないが、シンポジウムなどでは観察することができる。例えば、参照、「定住外国人の地方自治体参政権 [シンポジウム]」徐龍達編『定住外国人の地方参政権』における各論者の言説。
[*45] Ernest Gellner, Nations and Nationalism (Blackwell, 1983) アーネスト=
ゲルナー著・加藤節監訳『民族とナショナリズム』(岩波書店、二〇〇〇年), p. 1.
[*46] 参照、樋口陽一『憲法と国家』(岩波書店、一九九九年)七二−一〇〇頁。
[*47] C・テイラーは、「承認の政治」を「普遍主義的承認の政治」と「差異の政治」に区分している。Cf. Chales Taylor, 'The Politics of Recognition,' in Chales Taylor et al., Multiculturalism (Princeton University Press, 1994), pp. 37-44.
[*48] 統合型モデルが帰化=同化の等式を否定するという点については疑問があるかも知れない。例えば、E・トッドは、フランス流の統合型を称揚しつつ、「統合(integration)」ではなく「同化(assimilation)」こそが目指されるべきであると主張する。参照、Emmanuel Todd, le Destion des Immigres :Assimilation et Segregation dans les Democraties Occidentales (Editions du Seuil, 1994) エマニュエル=トッド著・石崎晴己訳『移民の運命―同化か隔離か』(藤原書店、一九九九年)五一八−五一九頁。その場合の同化とは、ある言語を学ぶこと、ある習俗システムに入っていくこと、配偶者を自分の集団外から得る外婚を行うことである。参照、同書、五一六頁他。しかし、トッドは他方でフランス流の統合型(普遍主義)は逆に、現実社会での多様性を容認しており、その意味での「開かれた同化主義」こそが重要であるとしている。参照、同書、第九章。したがって、トッドの議論で帰化することは、日本社会に見られるような強い意味での同化を意味すると捉えられているわけではない。
[*49] 肯定説がその主張を一貫させるための方法として、帰化=同化テーゼを否定することが考えられる。このような方向性は、国家は可能な限りの差異を許容すべきであるとするものであり、国家を相対化しコスモポリタニズムを志向するものである。例えば、肯定説論者で「地球民主主義」を標榜するものとして、参照、江橋崇「定住外国人の地方参政権と民主主義」。また、コスモポリタニズムを裏面から照射する興味深い論考を集めたものとして、参照、Martha C. Nussbaum with Respondents; edited by Joshua Cohen, For Love of Country: Debating the Limits of Patriotism (Beacon Press, 1996) マーサ=ヌスバウム著・辰巳伸知・能川元一訳『国を愛するということ 愛国主義の限界をめぐる論争』(人文書院、二〇〇〇年)。
 しかしながら、コスモポリタニズムは外国人の参政権問題に関して、肯定説を支持する含意を有するわけではない。コスモポリタニズムと外国人の参政権の関係について、次の二点を指摘できる。
 第一に、コスモポリタニズムは国家の境界を相対化するのであり、そこでは現行国際法秩序では認められていない「入国」の自由が、基本的に承認されることになる。コスモポリタニズムを信奉する論者は、この点を明示しなければならない。
 第二に、コスモポリタニズムは、論理的には、「外国人にも参政権を」という主張を否定する。コスモポリタニズムでは、現在の国家は世界中央政府の下にある地方自治政府という位置づけになる。その自治政府への参政権は当該自治体住民に与えられることになるが、その自治体住民とは、当該自治体に居住する者ではなく、当該自治体に住民票を有する者となる。すなわち、自治政府(国家)への参政権は、住民票(国籍)を有する者に付与されるのである。住民票を有さない者が参政権を請求したとしても、参政権を得るためには当該自治体の住民票を取得すべきである主張せざるをえない。したがって、コスモポリタニズムによっても、「外国人にも参政権を」という主張を肯定することはできない。
[*50] 「nation」を規定する試みとして、参照、エルネスト=ルナン著・鵜飼哲訳「国民とは何か」エルネスト=ルナン他著『国民とは何か』(インスクリプト、一九九七年)所収、Benedict Anderson, Imagined Communities (Verso Books, 1991) ベネディクト=アンダーソン著・白石隆・白石さや訳『増補 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』(NTT出版、一九九七年), chap. 1, Ernest Gellner, Nations and Nationalism, chap.1 & 5、Anthony D. Smith, The Ethnic Origins of Nations (Blackwell, 1986) アントニー=スミス著・巣山靖司・高城和義他訳『ネイションとエスニシティ』(名古屋大学出版会、一九九九年), chap 1, 2 & 6、関曠野『民族とは何か』(講談社、二〇〇一年)。
 本稿の「国民」の規定方法は、ルナン・ゲルナー・アンダーソンらの「nation」の規定とは異なり、精神的・主観的要素を排除している。また、本稿の国民と民族の区別は、スミスのnationとethnieの区別とも異なっている。本稿の「国民」は、形式的要素によって規定されており、英語のnationality, citizenshipに近い。この意味で、スミスの言葉を使えば、nationの血統モデル(エスニックモデル)ではなく市民モデル(領域モデル)を採用していると言える。もっとも、市民モデルが領域性・法制度・市民権とならんで共通の文化をもその特徴としている点では、一切の文化的要素を捨象した本稿の定義は、より純化された定義であると言える。Cf. Anthony D. Smith, The Ethnic Origins of Nations, pp. 134-137, 149-152.
[*51] この点に関し、ホブズボームも次のように述べている。「一方における領域国家の市民集団と、他方におけるエスニック的・言語的その他の理由に基づいた「ネイション」という一体性(中略)との間には、何らの論理的関連もなかった。」E. J. Hobsbawm, Nations and Nationalism since 1780: Programme, Myth, Reality (Cambridge University Press, 1990) E.J.ホブズボーム著・浜林正夫・嶋田耕也・庄司信訳『ナショナリズムの歴史と現在』(大月書店、二〇〇一年), p. 19.
[*52] このような点からすると、この文脈で、「日本人」・「韓国人」といった「〜人」という言葉を用いることはミスリーディングである。
[*53] 注41で触れたように、肯定説から「生活実態」によって国民を規定する考え方も提出されている。参照、浦部法穂「日本国憲法と外国人の参政権」。しかし、そのような国民概念は、国民の同定基準として国籍が採用されている現代国際法秩序からすれば、妥当性に欠ける。このような国民概念を採用した場合の「在外日本国民」の地位を考えれば、その不当性は明らかである。
[*54] このように、政治的なものである国民を文化的なものである民族から切断する本稿の立場は、「政治的なもの(the political)」を「包括的信条(comprehensive doctrines)」から切断するJ・ロールズの立場と結果的に同型である。Cf. John Rawls, Political Liberalism (Columbia University Press, 1996). ロールズの場合には主に宗教が念頭に置かれているが、本稿ではそれが民族性に転用された形になっている。このことは、宗教と民族性の異同に関する興味深い論点を含むが、政治的なものであっても包括的信条によって正当化しなければならないといったロールズに対する批判は本稿の立場には妥当せず、ロールズ自身の政治的リベラリズムの構想よりも本稿の主張のほうが擁護可能性が高い。
[*55] 同様の結論として、参照、常本照樹「民族的マイノリティの権利とアイデンティティ」『岩波講座 現代の法14 自己決定権と法』一九六−一九七頁。
[*56] W・キムリカの理論は、現代の多文化主義理論の理論的到達点の一つであるが、民族的マイノリティーに集団別代表権を承認するW・キムリカも、その民族的マイノリティーが国籍を有することは当然の前提としていると考えられる。Cf. Will Kymlicha, Multicultural Citizenship (Oxford University Press,1995) 『多文化時代の市民権』(晃洋書房、一九九八年).
[*57] Cf. Will Kymlicha, Multicultural Citizenship, p. 23.
[*58] 二重国籍の問題を論じるものとして、参照、近藤敦『外国人の人権と市民権』第三章。近藤は二重国籍のメリットを認識しつつ、「外国人地方参政権の方が早道である」と主張している。同書、一四二−一四三頁。
[*59] 参照、トーマス=ハンマー『永住市民と国民国家―定住外国人の政治参加―』第七章。
[*60] 参照、坂本多加雄『国家学のすすめ』(筑摩書房、二〇〇一年)。
[*61] 戦争責任を通じた国家論については別稿を予定しているが、さしあたり参照、瀧川裕英「個人自己責任の原則と集合的責任」松浦好治編『法の臨界三 法実践への提言』(東京大学出版会、1999年)。


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