Last Update - 08/10/14
1 はじめに 私は以前からさまざまな様態の「希ガス」を対象とした研究を行ってきた。希ガス原子は「不活性ガス」と呼ばれることが示す通り,それ自身単体で安定に存在する単原子分子である。希ガス原子中の電子は許されている全ての軌道を占めていて,他の原子などと結合するための余っている手(結合手)を持たず,原子や固体といった全く違う様態でもその電子的性質はかなり似通っている事が知られている。そのため,原子数が最小の極限である孤立した原子,および最大の極限である固体,またその中間であるクラスターという3つの状態を「電子的励起過程」という一つのキーワードで統一的に理解することが可能であると考えている。 私の研究室では,希ガスクラスター・固体の二つの相について「電子的励起過程」がどのように起こるのか,また励起状態がどのように移り変わっていくのかを明らかにするための実験的研究を行っている。
希ガス原子に電子や光などを衝突させることにより,電子的な状態を変化させることができる。例として,Neの場合の電子的励起状態の生成スペクトルを図1に示す。スペクトル(A)と(B)はNe原子を標的とした場合である。例えば2p軌道の電子を3s軌道に励起して2p53s状態の原子を作るのに必要なエネルギーは,約16.8eVであることがこの結果から解る。また,ピークの高さがその励起状態の生成しやすさに対応する。光子で励起した場合(A) と電子で励起した場合(B)のスペクトルは良く似てはいるが,例えばスペクトル(B)で18.6 -- 19.0 eVに現れる2p53p状態のピークは(A)には観測されていない。これは量子力学的な角運動量保存則である「選択規則」により,2p53p状態は光衝撃では生成できないためである。 希ガス原子を標的とした実験は古くからいろいろな手法を用いて行われ,また理論的にも数多くの研究例があるため,原子の電子的励起状態はかなり良く解ってきている。後述する希ガス固体と希ガスクラスターの研究を行うにあたっては,原子で得られている情報が役に立つことが多い。
前述した通り,希ガス原子は結合手を持たないために通常の環境では他の原子と結合せず,結合エネルギーが非常に小さい。Ne, Ar, Kr, Xe固体の結合エネルギーはそれぞれ0.02eV, 0.08eV, 0.12eV, 0.17eVであり他の物質(例えば鉄:4.3 eV,塩:7.9 eV)と比べて極端に小さいため,固体(氷)を作るためには極低温にする必要がある。固体を作るために必要な温度は,Neの場合では7K程度以下,Xeの場合は50K程度である。 Ne固体を標的とした場合の電子的励起状態の生成スペクトルを図1(C)に示す。原子を標的とした場合とはピークの位置・太さが大きく異なっていることがわかる。しかし,その違いを詳しく調べてみると,原子の場合に観測されているピークが全て少しずつ高エネルギー側にずれ,かつ太さが太くなっていると考えるとうまく説明ができることが知られている。希ガス原子は安定であり周囲の粒子と反応を起こさないため,原子の場合でも固体の場合でも(多少の違いはあるが)電子的励起に関してはほぼ同様の過程が起きていると考えて良く,このことは,さまざまな様態の希ガスを研究するうえでの利点の一つとなっている。 Ne固体中にNe原子の最外殻電子を一つ励起してできる1s22s22p53s状態を生成した場合について考えてみる。この励起状態は約10-8秒程度の寿命を持ち,その後光を放出して基底状態(1s22s22p6)に落ちる。孤立した原子の場合にはその時間内に他の原子と出会う確率は非常に低いが,固体のようにすぐそば(固体Neの場合は隣の原子との距離は0.32nm)に原子が存在するような環境では,10-8秒という時間でも相互作用を起こすには十分な時間である。1s22s22p53sという励起状態は,1s22s22p5という状態の正イオンの外側に電子が1個存在している状態であり,アルカリ金属であるNa原子(電子配置:1s22s22p63s)と似た状態になる。また,電子を一つはぎ取った(電離した)場合(電子配置:1s22s22p5)は,ハロゲン元素であるF原子と同じ電子配置である。アルカリ金属元素もハロゲン元素も非常に反応性が高いことが知られている。すなわち,基底状態では「おとなしい」希ガス原子も,励起状態やイオンになった途端に非常に反応性が高くなり,周囲の原子と様々な反応を起こす。孤立した原子を標的として実験を行った場合とは違い,固体を標的とした場合にはこのような励起原子と周囲との相互作用を効率的に観測することが可能となる。 図1のスペクトル(D)と(E)は,それぞれ固体Neを光で励起した時に脱離する励起原子と全原子の脱離強度の入射光エネルギー依存性である。固体中に生成した励起原子の量はスペクトル(C) のピークの高さで知ることができるが,「励起後の脱離」という現象を通してみると,たくさん励起させたからと言ってたくさん脱離するとは限らないことが解る。また,同じ「脱離」という現象を見ても,脱離する原子の種類によってその様子が全く違うことが(D)と(E)の比較から明らかである。これらの結果を解析することにより,固体を構成する原子が励起後に周囲の原子とどのような相互作用を起こすのかなど,原子レベルでの詳細な情報を得ることができる。 現在,低エネルギー(10 eV ~ 50 eV)電子衝撃による固体Neからの脱離励起原子の脱離収率・脱離エネルギー分布・脱離角度分布の試料温度依存性を測定している(試料温度範囲:4.5 ~ 7 K)。2003年度の実験により,固体表面の結晶構造が脱離角度分布に影響を及ぼすことが明らかになり,現在,より詳細な測定および解析を行っている。 また,2001年度にハイテクリサーチセンター整備事業により購入した電子サイクロトロン共鳴(ECR)型多価イオン源を使用して,多価イオンと希ガス固体相互作用に関する実験を行っている。多価イオンとは価数が2価以上のイオンのことで,それ自身の持つ内部(静電)エネルギー(= イオン化エネルギーの総和)が大きいため,多価イオンが固体表面に衝突した際には,固体を構成する原子の電子状態やそれらの幾何学的構造に大きな影響を及ぼす。現在,主に脱離粒子の観測を通して,非常にもろい希ガス固体の表面および固体中で,多価イオンの持つ巨大な静電エネルギーがどのように消費されるのかを定量的に明らかにすることを目的とする実験を行っている。
クラスターとは原子が有限個集まったものである。実験的に生成可能なクラスターの大きさ(原子数)は,2〜数百万個程度であるが,その大きさにより「物理」が変わってくる。原子数が10個程度以下では,「原子」としての性質を強く示すが,例えば100万個(直径が原子数約100個分)程度になるとそれはほぼ「固体」としての物性を示す。その中間の状態を観測すると,物質の性質が「原子」から「固体」へどう変化していくのかを知ることができる。 この研究では,断熱膨張法を用いて希ガスクラスタービームを作り,そこに低エネルギー電子を衝突させることにより励起状態原子を生成し,その生成エネルギーおよび生成確率のクラスターサイズ依存性を広い範囲のサイズ(原子数数十 ~ 数十万)で測定する計画である。特に,電子的励起過程という観点から,どれくらいの数の原子が集まったときに「固体」としての性質を持つのか,という点に興味を持っている。また,クラスターはほぼ球形をしているので,固体と比べると表面を構成する原子数の割合が高い。そのために固体を標的とした場合には観測が難しい表面第1層目のみで起こる励起(表面励起子)を感度良く測定することが可能である。 2003年度にこの研究のための電子エネルギー損失分光装置を製作した(図2)。標的とする希ガスクラスタービームは粒子密度が低いため,観測される信号も非常に弱いことが予想される。この困難を克服するために電子ビームとクラスタービームを合流して衝突させる,合流ビーム法を採用した。現在装置がほぼ完成し動作確認を行っている。この装置の詳細は,膳崇訓君の2003年度修士論文にまとめられている。2004年度はこの装置を用いてクラスターを標的とした実験を開始する。
図2.希ガスクラスターを標的とした電子エネルギー損失分光装置の概略図。
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研究室案内原稿
2006年度 2005年度 2004年度 2003年度 2002年度 2001年度
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