【第13回】ジェンダー概論

今日は、ジェンダー概念を生み出したマーガレット・ミードの研究を紹介した上で、
ジェンダーの人類学が何を明らかにするのかを示したい。


サジタリ
「ジェンダー漫才」







@マーガレット・ミードのジェンダー研究

マーガレット・ミード
(1901-1978)






@サモアの思春期(1928)

Coming of Age in Samoa
A Study of Adolescence and Sex
in Primitive Society
.





ビデオ「サモアの思春期



サモアにおいて思春期の悩み、危機がないのはなぜか?

子どもの頃から大家族制のなかで育てられ、
人見知りしないくせがついていて、多くの人に広く浅く愛情を向けて、
子どものころから性を包み隠されずに、見て育っているため、
青年期に性について知らされてもショックを受けない。

思春期という精神的に不安定な時期は、
はたして人類に普遍的に存在するのだろうか?

*人間の性的な成熟過程が
文化によって異なることを示した。




A三つの未開社会における気質(1935)

Sex and Temperament in
Three Primitive Societies.




ニューギニアの3社会の比較



*「男らしさ」「女らしさ」は、生物学的に生得的に決定されるのではなく、
文化によって後天的に形成されるものであり、
人類普遍的ではなく、文化ごとに異なる。




B男性と女性(1949)

Male and Female.



男とは、女とは、男はなぜ男となり、女はなぜ女となるのか?

生物学的な性差と社会的・文化的要素が
どのように関係して、男女のあり方を規定するのか?

*南太平洋の社会とアメリカ社会を比較検討して、
性別役割、男らしさ、女らしさ、性行動に対する観念が、
文化ごとに異なることを示した。



まとめ

男らしさ、女らしさは、それぞれの社会で、男女が生きてゆくための文化的カテゴリーとしての性、
つまりジェンダーによって決定される。


ミードのジェンダー研究への貢献

男女の性質や行動様式が、文化によって異なることを指摘した。

マーガレット・ミード





A 第三のジェンダー


まずは、性とこころの不一致としての「性同一性障害」について考えてみよう。


現代日本におけるGID(性同一障害)
をめぐる概況


FTM(Female to Male)=女性から男性へ
MTF(Male to Female)=男性から女性へ


性同一性障害(Gender Identity Disorder)
心の性別と身体の性別が一致しないこと

日本では、1996年に埼玉医大で議論
2003年に性同一性障害者の性別の取り扱いの特例法施行

戸籍上の性別を変えることが可能となった。
受診者数は7,000人を超えている(2007年まで)。

男女のカテゴリーに当てはまるような性自認がある。

しかし、実際には、多様な性自認の形がある。


トランスジェンダー =性適合手術をしていない場合
トランスセクシャル =性適合手術をしている場合


身体的に女性であるが男性として生きること
=<身体的性別=社会的性別>に反対し、
そうした図式の当てはめに異議を唱えること。


トランスジェンダーの語りの特徴

「最大の目標は、自己の姿を消し去り、
普通の人たちの間にはやくまぎれ込むこと」

「性転換によって新たな自分になる」・・・

多くの場合、
境界線を単純に跨ぎ超えるようなものではない。

法律施行によって性同一性障害者の
生活の利便性は向上した。

一方で障害であるとして扱われることが残っている。

一致していないから障害、一致させるよう矯正、という構図。

理念的な男性/女性の身体を理想的な身体として措定

人びとの性的身体がその理想的身体像と一致していなければ、
それは矯正されるべき「間違った身体」とみなされる。

性同一性障害者は、そのような「間違った身体」の持ち主
であると社会からみなされ、またそう自認することによって、
性別適合手術を暗に強制される。

トランスセクシャルの性とセックスを考えることは、
人間の性とセックスの研究への有効な展望を開くことになる。


市野澤潤平
「越境としての『性転換』」
奥野・椎野・竹ノ下共編著
『セックスの人類学』より


はたして、性は二つだけなのだろうか?

現代社会の「性の越境者たち」

性転換者(トランスセクシュアル)、ニューハーフ、おかま、異性装者・・・など多様な性の越境者たちがいる


オネエタクシー



ミッツ・マングローブ
ダイアナ・エクストラバガンザ



性は二つだけって、いったい誰が決めたのだろうか?



地球上の「伝統社会」を眺めれば、多くの社会で、ジェンダーは二つだけではないことに気づく。

第三のジェンダー

男でもなく、女でもない、
あるいは、
男でもあり、女でもあるカテゴリー

第三のジェンダー研究

Gilbert Herdt (eds.)
Third Sex, Third Gender:
Beyond Sexual Dimorphism in Culture and History





世界にはあちこちに
「性の越境者たち」=第三のジェンダーがいる。


           世界の第三のジェンダー


 
インド「ヒジュラ(hijra)」は、西洋における強固な男女の二分法に抗する第三のジェンダーの代表例として、これまで、大きな注目を浴びてきた。ヒジュラの大半は貧困層の出身であり、そのほとんどが生物学的には正常な男性であり、母なる女神に仕えるために「去勢儀礼」をつうじて現世を放棄した人びとである。ヒジュラ研究で知られる文化人類学者・ナンダによれば、ヒジュラとは、一般に、ペニスがないか、あるいはペニスに欠陥があるために、男でもなく、また、生殖能力を示す、月経がないために、女でもないという、「男でもなく、女でもない」存在であるとされてきた。

 人は、どのようにヒジュラになるのだろうか。ヒジュラになることを決意し、産婆役のヒジュラによって去勢された男たちの生命は、しばしば危険に晒されるという。やがて去勢の傷が癒えると、女性のように華やかに着飾って、儀礼や祈りをともなう修道を実践するための力を発揮するようになる。それと引き換えに、男としては性的不能になるが、他方で、ヒジュラの多くは、男性との間で性関係を持ち、売春婦として働くようになる。彼らは導師(グル)を中心に組織化され、「家族」のように暮らしている。

 ヒジュラは女神の祝福を受けることによって、ヒンドゥー社会において、儀礼上、重要な役割を担ってきた。そのなかで、最も重要な役割は、男の子が生れた家での儀礼の執行である。インド人の家族にとって、男児の出産は最も大切なことであり、それは盛大な祝福に値する。祝福と吉兆の儀礼において、ヒジュラが子どもと家族を祝福し、親族・友人や近隣の人びとに対して、娯楽を提供するのである。


 
中東では、オマーン「ハンニース(xanith)」が知られている。ハンニースは、「インポテンツ、男らしくない男、弱々しい」を意味する。ハンニースは、生物学的には男性であるが、女性の領域の活動に従事し、家事や料理で褒められると喜びを感じる。白い肌、黒い髪、大きな瞳、ふっくらとした頬などの女性的な身体的特徴を有しているとされる。ハンニースの顔立ち、声、笑い方、動作、歩き方などは女性の模倣であり、服装は男性と女性のスタイルを合わせたものである。そうした点から、ハンニースは、男性と女性の中間に置かれる、第三のジェンダーだと考えられる。

 ハンニースは、「召使」として働くことが多い。オマーンでは、女性は自分の肉親の以外の男性に素顔を見せてはいけないとされ、ベールで顔を覆うが、女性たちは、中間の性としてのハンニースに対しては、一般に、素顔を見せることが許されている。また、ハンニースは、女性との結婚を選択し、男性の性的能力があることを公然と証明するならば、ふたたび男性に戻ることもできるとされる。他方で、ハンニースは、男性と同性愛行為を行う点で、第三のジェンダーではなくて、ホモセクシュアルであるとする見方もある。

 
アメリカ先住民のナヴァホ(Navajo)社会には、「変容したもの」という意味の”nadle”と呼ばれる、第三のジェンダーの存在が知られている。nadleは、ふつう生物学的には男性である。1935年のヒルによる報告によれば、彼らが性的な発達障害であるかどうかははっきりしない。一般的には、生まれながらにしてnadleであろうとの予感のもとに育てられ、少年期に性的な特質を変容させていく。そうした人物は、性をめぐる争いごとなどの仲介者になったとされる。ナヴァホ社会では、男にして女であるnadleの存在は吉兆であり、大地と住民に豊穣をもたらすと信じられていた。

 カリフォルニアとアリゾナの州境の砂漠に暮らす
モハヴェ(Mohave)社会には、女装する同性愛者の男性”alyha”と、同性愛者の女性”hwame”がいた。母親が妊娠中に見た夢が男の子のジェンダーを規定するように働くことがあり、その後、男の子が人形遊びやままごとをするようになると、両親たちは戸惑うこともあったが、最終的には、alyhaになるための儀礼を準備したという。少年は、儀礼で女性の踊りを舞い、儀礼後に川べりに連れて行かれ、そこで少女用のスカートを与えられて、alyhaであることが承認された。alyhaになると、多くの夫を持ち、肛門および口唇性交を行ったようである。血が出るまで股間を棒で引っ掻くなどして、月経を演じることもあったという。男からalyhaへのジェンダーの変更には抗うことはできず、そのことは受け入れるべき宿命であると考えられていた。その意味で、第三のジェンダーに対しては、社会的な場所が与えられていたのである。また、alyhaには、病気治しの特別な超自然的な力があったとされる。

 植民地化以前のアメリカ先住民社会に広くみられた、こうした第三のジェンダーには、上位者である男性と受動的に性関係を持つ男性という意味のアラビア語に由来する
「ベルダーシュ(berdache)」という名称が与えられてきた。しかしながら、ハートは、彼らが先住民社会で果たした宗教的・霊的な重要性から、ベルダーシュではなくて、「二つの魂」という語をあてるのが望ましいと主張する。生物学的な男性から男と女の二つの魂を持つ存在への変容は、家事や手工芸、庭仕事、所帯の切り盛りや家計の運営に至る女性の領域の仕事に従事するようになれば済んでいると考えられた。彼らは、一般に、幼少期から、語り部や治療者としての技能を持つようになり、異性装を好み、感情表現やしぐさは異性的であり、成人するとホモセクシュアルであるという性的指向が現れたという。



 
ポリネシアからもまた、各地から、生物学的には男性に見えるが、文化的には女性の特徴を有する存在としての第三のジェンダーが報告されている。タヒチ「マフ(mahu)」サモア「ファアファフィネ(fa’afafine)」トンガ「ファカレイティ(fakaleiti)」ツバル「ピナピナアイネ(pinapinaaine)」などである。





 そのうち、タヒチのマフは、生物学的には男性であるが、女性的な身体的特徴を有し、ペニスが短小で、割礼では包皮切除が施されることはない。彼らは、女性の役割である家事に従事し、ときには、男性を相手に性行為をする。レヴィによれば、タヒチの人びとは、生まれながらの性を変えることはできないが、マフであることは止めることができると考えているという。若いころに女装していたある男性は、マフであるとみなされるようになったが、20代初めにそうしたスタイルを放棄して、ふたたび男へと戻ったという。

 かつて、マフはひとりの人間の社会的・精神的な生活全般に関わり、自身だけでなく物事一般を変容させることができる儀的役割を担っていたという。マフは、リミナルな(境界的な)存在であり、歌や踊り、語りなどに秀でた、第三のジェンダーであった。しかし、今日では、化粧をし、女装する異性装者にすぎないと見られているだけでなく、極端な場合には、性転換手術して、トランスセクシュアルになろうとする者も現れてきているという。ハートは、そのことが、ヘテロセクシュアリティーの擁護、つまり、男と女の明瞭なバウンダリーの再強化につながっていると見ている。

 サモアでは、女性の行動に強い関心を示したり、男性的な服装や喋り方をしなくなったりした男性は、「女性のような」という意味の、ファアファフィネであるとされる。その語は、女性ではなく、女性の見かけと同じようであることを意味する。ファアファフィネには、ホモセクシュアルという意味はない。それは、男とも女とも区別される、第三のジェンダーである。サモアの男性は、誰でもファアファフィネになるポテンシャルがあるが、そのような特徴を遠ざけることで、少年は男になっていく。

 ファアファフィネとは、ジェンダーによって区切られた空間を乗り越える存在である。第一に、ファアファフィネは、女性に割り振られた役割をこなすのを得意とする。第二に、通常ならば接触するのが難しい女性たちに混じって、男女の間の仲介役を果たす。山本は、ジェンダーを安定したアイデンティティーではなく、パフォーマティヴなものであると捉えるジュディス・バトラーの議論を引きながら、ファアファフィネは、女性を演じるものであり、そして、その誇張された演技のなかに、ジェンダーの虚構性を体現していると論じている。

 トンガでは、身体的には男であるが、女の役割分担を請け負った存在は、ファカレイティと呼ばれる。逆に、身体は女であっても社会的な役割の世界では男であると見なされる存在は、ファカ・タンガタ(faka tangata)と呼ばれる。ファカ・タンガタは、料理や洗濯をして母親を助けることもある点で、男と女の二重の役割を負っているとされる。その点において、ファカレイティとファカ・タンガネは、第三のジェンダーとして鏡像関係にはない。ベスニアは、ファカレイティが、つねに男性の特性を維持している点で、第三のジェンダーではないと論じている。他方で、山路は、ファカレイティが男性へと戻った後にも、ファカテイティというジェンダー・カテゴリーは、いったん獲得された刻印となって、剥がすことができないと述べている。

奥野克巳「第三のジェンダーの比較研究」(2013より抜粋)


インドネシアのブギス社会の
チャラバイを例にとって、
第三のジェンダーについて考えてみよう


ブギスのチャラバイ



ここではジェンダーといっても
必ずしも男女という性別を基盤にして
形成されるのではない事例を見てみよう。

インドネシア・南スラウェシのブギス社会には、
チャラバイと呼ばれる第三のジェンダーというべき存在がある。

チャラバイとはブギス語で
「偽りの女」という意味。

そのカテゴリーに属する人の性別(セックス)は基本的に
男性

異性装(トランスヴェスタイト)し、言葉やしぐさなども女性のようにふるまう。



彼らはしばしば、結婚式を盛大に行なうのが好きなブギス人の結婚式のビジネスに携わり、
客をもてなす料理の準備、披露宴をもりあげ、歌謡・舞踊ショーの演技を繰り広げる。

基本的に、チャラバイには性転換の手術をする人もなく、
女性の心をもっているとされる。

チャラバイになった人のほとんどが、幼い頃から女の子と遊ぶのが好きであったとか、
母の仕事を一緒に手伝っていた。

少年時代から自分の性器にコンプレックスを抱いており、
親族や民間治療師にもチャラバイになる可能性をほのめかされた
といった経験をもつ人も多い。

たいてい、中学校を終えるかどうかの年齢になったとき、
両親の家を出て一人暮らしの親戚の家や結婚式ビジネスをやるボスのところに行き、
手習い仕事を始めることが多い。

彼らは互いに固いネットワークを築いており、
団結心のようなものももっている。

その多くは同性愛者であるが、
彼らのなかには妻子をもった男性がチャラバイになったり、
チャラバイをやめて女性と結婚したりする、という事例もある。


チャラバイ・コミュニティーは、同性愛者であることが期待された
ジェンダー役割あるいは性指向を持つともいえる。

ブギス社会は、男性というセックスをもって生まれてきたものの、
女性としての性自認を自覚し女装や「女性らしい」ふるまいをすることで
チャラバイになろうとする男を受け入れる。

そうした性別と性自認とにズレを示したとしても後者を優先させ、
「男」「女」というジェンダーの間を行き来したとしても、そのありのままを認める。




そのズレを大きな社会的障害ととらえ、性同一障害として位置づける
日本社会とはその対処法が大きく異なる。


こうした社会の姿勢は、ブギスだけでなく、
東南アジア、ポリネシアにも広くみられる。

私たちは、ジェンダー交替といえば性転換手術を思い浮かべるかもしれない。

ジェンダー交替に第三のジェンダーをもうけるような社会もある。





【市民パートナー】


エルトン・ジョン

Elton John

Your Song




Don't Go Breaking
My Heart




David Furnish was proposed to by John in May 2005,
then Furnish and John entered into a civil partnership
on the first day that civil partnerships could be
performed in England. Their son Zachary Furnish-John
was born in December 25, 2010 via a surrogate.




エルトン・ジョン第2子誕生か?

代理母による出産で第2子を迎えた
エルトン・ジョン、その喜びを語る



男らしさや女らしさは文化によって異なっており、
そうした社会的な性別のあり方について考えるためにつくられた概念がジェンダーであった。

「性同一性障害」とは、生まれながらの性(セックス)と
社会的な性(ジェンダー)が一致しない人物に名づけられた病名である。

私たちのジェンダー問題について考えるために、
ジェンダーの人類学は、地球上の諸社会のジェンダーに接近する。

性は二つだけではない。
地球上には、生物学的な意味での男と女だけでなく、
両性の間に、多様な形態のジェンダーを持つ社会がある。

ここでは、ブギス社会のチャラバイと呼ばれる<第三のジェンダー>を取り上げた。

それは、女の心を持つ男のことである。
ブギス人たちは、性自認を優先させる。
男が女の心を持つとチャラバイとなり、チャラバイは、再び男に戻ることもできる。
ブギス社会では、ジェンダー交替が認められている。

そうした観点から、私たちの社会における、ジェンダーをめぐる問題について考えてみることができる。




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