【第16回】座敷童子、沈黙交易、象徴交換
今日は、幾つかのトピックのなかに、経済人類学の課題を追究してみよう。
@<座敷童子>や<憑き物筋>などの日本の宗教現象を取り上げる。
それらが、どのように経済のトピックなのかを考えてみたい。
A市場交換はどのように生まれたのだろうか。
物々交換が貨幣を用いる市場交換へと発展したのか。
市場交換の原点には、いったい何があったのかについて考えてみたい。
B<贈与>や<交換>を、アメリカ先住民の考え方から捉え直してみよう。
とりわけ「贈与の霊」を取り上げて考えてみたい。
@座敷童子/憑き物
ここでは、<座敷童子>と<憑き物>を取り上げてみたい。
そのような現象は、じつは、経済と深く関わっている。
遠野物語 柳田國男のテーマは、「本当の日本人の幸福とは何か」であった。 日本民俗学の原点「遠野物語」のなかで、柳田國男は、遠野の山河の風景、 四季の変化と人の心を描き出した。 座敷童子
赤面垂髪の5、6歳くらいの童子。 豪家や旧家の奥座敷におり、その存在が家の趨勢にかかわると言われるため、 これを手厚く取り扱い、毎日膳を供える家もある。 座敷童子は悪戯好きで、夜になると客人のふとんの上に またがったり枕を返したりするが、見たものには幸運が訪れるといわれる。 その姿は家の者以外には見えず、 また、子供には見えても、大人には見えないとする説もある。 座敷童子がいる家は、繁栄している。 繁栄する家には、座敷童子が見られる。 没落すると、座敷童子は見られなくなる。 座敷童子は、「外部の他者」がもたらす富と繁栄を表している。 CMにも取り上げられた 座敷童子 座敷わらし 座敷童子は、経済的な繁栄と没落に関わるという点で、 経済人類学の重要なテーマである。 |
憑き物 狐憑き、オサキ憑き、犬神憑き・・・ 憑き物の家系がある=憑き物筋 群馬県多野郡などで、 よく人に憑くといわれる オサキあるいはオーサキといわれる動物は、 どんな動物なのか村の人たちに聞いてみると、 ネズミよりはすこし大きく、 茶、茶褐色、黒、白、ブチなどの いろいろな毛並みをしており、 耳が人間の耳に似ていて、 鼻の先がちょっと白いとか、 鼻がブタのようだという人もあり、 四角い口をしている。 (吉田禎吾『日本の憑きもの』39頁) とにかく このオサキないしオーサキに憑かれると、 発熱し、興奮し、精神異常を呈して 身体中を掻きむしったり、油揚やオハギを たくさん食べたがったりする。 そして今日は××がお見舞いにスシを持ってくるというと、 その通りにその人がスシを持ってくるという・・・ (吉田禎吾『日本の憑きもの』40頁) 吉田禎吾 『日本の憑きもの』 中公新書 西南型農村=本家・分家型ではない (東北型=本家・分家) に憑き物筋が多く分布する。 西南型農村は、流動的な社会組織で、貨幣経済の流通で富を獲得した家系が 憑き物筋として語られる。 憑き物筋の家系が、汚名を着せられるのである。 その結果、その家は没落し、共同体は経済的に平準化する。 富を獲得した家系が憑き物筋として語られ、 そうした汚名を与えられた家が勢いを失って没落し、 やがて共同体は経済的に平準化されてゆく。 石塚尊俊 『日本の憑きもの』 未来社
憑き物筋は、 宗教・心理的現象である。 一方で、栄えている家が、憑き物筋であるとされることで、 社会的な汚名を負い、没落して、共同体のなかに社会的・経済的な平等が 達成されるという意味で、それは、経済人類学的に重要なテーマでもある。 |
A市場交換の起源
市場における交換の起源にはいったい何があったのか?
経済史家、経済人類学者
カール・ポランニー
の考察
ポランニーは、西アフリカのダホメ社会を手がかりとして、
「原始・未開」社会の経済を研究した。
経済の起源をめぐる考察
@互酬 (reciprocity) AからBへ、BからAへ 贈り物とそのお返し 日本社会の互酬性 バレンタインデーとホワイトデー A再分配 (redistribution) 一度たくさんの AをBに集めておいて、 ある時期になると BがAを配る ポリネシア・タヒチ 余剰生産物の再分配 (首長制社会:エルマン・サーヴィス) B交換 (exchange) 不特定多数のAとBが 相互に行き交う イスタンブールの グランド・バザール |
「原始・未開」社会では、互酬と再分配が主流
近代社会は、市場における交換が主流
ポランニーは、
「原始・未開社会」=互酬と再分配 近代社会=市場交換 |
だとしても、
それぞれの交換活動のパターンは
独自のかたちで発展したと考えた。
原始→近代
互酬・再分配→市場交換
ポランニーの主張
人間にとっての経済を研究するためには、
それぞれのパターンがどのように組織されているのか
を観察する必要がある(ポランニー)。
ポランニーは、「物々交換がしだいに市場での交換になった」
という通説を批判した。
魚を取る人と米を収穫する人が出会って、
お互いにないものだからと交換する
(物々交換)のが、市場交換の原初形態だという見方は誤り!
市場での交換の起源には、「外部的な他者」とのやり取りがあった。
沈黙交易 (Silent Trade) 人びとが互いに言葉を交わさずに、 多くは自分の姿さえも隠しながら行われる交換のこと。
沈黙交易とは、異なる部族や共同体のコミュニケーションの一形態。 接触から生ずる危険を回避するために、ある場合には、「交易」となり、 別の場合には「戦闘」となる。 前者の制度化が、沈黙交易であった。 現代の沈黙交易? 無人野菜販売所 |
交換の問題に「外部の他者」を含めることで、
経済人類学は、人間の内面的な問題へと踏み込む。
マーク・ボイル 『ぼくはお金を使わずに生きることにした』 |
B象徴交換
交換は、物と物の交換ではあっても、
そこで取り交わされる何かは、物以上の何かである。
マルセル・モース
(1872-1950)
ハウ
贈与の霊
(the Spirit of the gift)
(ニュージーランドのマオリ)
贈り物が贈り手から移動するときに一緒に移動するもの。
ハウは贈り主に帰りたがるので、別の物にのせてお返ししなければならないとされる。
↓
贈与には:
「与える」「受け取る」「返す」という三つの義務がある。
・物には贈り主の分身がついているので、受け取らなければならない。
・拒めば、相手を受け入れないことになる。
・お返ししなければ、相手を無視したのも同然。
マオリの神話
以下では、アメリカ先住民の価値観から、資本主義について考えてみたい。
それは、<贈与>と<貯蔵・売買>を対照させてみることである。
贈与の霊:アメリカ先住民の贈り物の習慣の意味 アメリカ大陸に渡ったピューリタンたちは、そこで原住のインディアンたちと出会った。ピューリタンたちの目には、インディアンたちがひどく交際好きで,浪費を好む人間のように見えた。 インディアンは、たくさんの贈り物を交換しあい、もらったら必ずお返しをしなければ気のすまない人たちだ。倹約家で、こつこつとためるのが好きなピューリタンには、そういう「インディアン・ギフト」の習俗が、ひどく異様に見えたのである。 インディアンは白人の行政官が村を訪れたときに、友情の贈り物として、みごとなパイプを贈った。数ヵ月後、インディアンがこの白人のオフィスを訪問したところ、暖炉の上に、あのパイプが飾ってあるのを見て、激しい衝撃を受けた。 「白人はもらったもののお返しをしない。それどころか、もらったものを自分のものにして、飾っている。なんという不吉な人々だ」。 インディアンの思考では、贈り物は動いていかなければならないのである。贈り物といっしょに「贈与の霊」が、ほかの人に手渡された。そうしたら、この「贈与の霊」を、別のかたちをした贈り物にそえて、お返ししたり、別の人たちに手渡したりして、霊を動かさなければならないのである。 「贈与の霊」が動き、流れてゆくとき、世界は物質的にも豊かだし、人々の心は生き生きとしてくる。だから、贈り物は自分のものにしてはならず、たえず動いてゆくものでなければならないのである。 無駄遣いの嫌いなピューリタンたちは、大地を循環する「贈与の霊」の動きを止めることによって、自分の富を増殖させようとしていたのである。インディアンにとって、それはまことに不吉の前兆だった。 大地と人の間を動き、循環していた何ものかが、とどこおり、動きを止める。個人的な蓄積が、将来の蓄積を生むという、別種のデーモニックな力が徘徊してゆくことになる。それは、人々の物質的な暮らしを豊かにするだろうが、魂を豊かにすることは、けっしてないだろう。なぜなら、人間の魂の幸福は、つねに大地を循環する「贈与の霊」とともにあるものなのだから。 人が人に、贈り物を贈る。そのとき贈り物となった「もの」と、それを贈ったり、もらったりする「ひと」の間には、深い実存的なつながりが発生する。 贈られたものは、ただの「もの」ではなく、贈った人の人格の一部となり、贈り物といっしょに、人は他者の人の人格ないし魂の一部を受け取るのだ。さらに、この贈与の輪が拡大して、よりたくさんの「ひと」や「もの」をその動きと流れのなかに巻き込んでいくようになると、魂の流動するリングが形成されるようになる。 それとは反対に、売買は分離の力をはらんでいる。何かの「もの」が売られるものになるためには、まずそのものと所有者との絆が、様々な意味で、断ち切られていなければならない。私が友人に、彼の欲しがっているものをプレゼントしたとすれば、二人の友情はますます深まってゆく。逆に、友人にものを売りつけたとすれば、二人には距離ができる。 贈与は結びつけ、売買は分離する。 贈与して、それに答えて、贈り返す。ものごとの表面では、ただ贈り物が行ったり来たりしているだけのように見えるが、じっさいにはそこでは「霊」の受け渡しがおこり、この無の流動体のなかにには、運動への強い衝動が生まれている。 贈与は、人を人間の世界の外に連れ出そうとしている。これに対して、売買は、「霊」を殺す。
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異文化における贈与と交換をめぐる考え方を手がかりとしながら、私たちは、経済現象に関する全く別の見方を手に入れることができる。
@座敷童子や憑き物筋という宗教現象は、
経済と関わりのなかで理解することができる。
宗教現象は、経済学では取り上げないが、富と繁栄について考えるならば、
そうした現象についても視野に収めることができる。
A物々交換から市場交換が生み出されたのではない。
「外部の他者」という視点を導入するならば、
交換という課題に、別の観点が加えられる。
B非西洋社会の人びとの考えに寄り添うならば、
贈り物には「贈与の霊」が宿っているという
視点を手に入れることができる。
そのことをつうじて、私たちの売買に関して考えてみることができる。
出発点としては、経済といえばお金の話だったのだけれども、
全然そうではなくなってしまった。
経済人類学は、「経済」に関する別の見方を提供する。
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