【第19回】時間経験と象徴分類
今日は、儀礼について理解を深めてゆきたい。
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我々の時間経験を手がかりとして、儀礼とは何について考えてみたい。
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儀礼に象徴が多用されることを手がかりとして、分類すること、象徴することの意義について考えてみたい。
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時間経験と儀礼
平井堅「大きな古時計」 誕生秘話〜大きな古時計 |
【儀礼とは何か?】
人間はいかに時間を経験するのだろうか?
季節の「秋」とは何か?
冬 春 夏 秋 冬
私たちは秋という季節が存在していて、それを秋と呼ぶと漠然と思っている。
はたしてほんとうにそうなのだろうか?
実は、<秋>とわれわれが呼ぶものが、自然の中に存在しているわけではない。
暖かい期間の後に寒い期間があって、また暖かい期間が来る。
そういう経験に対して、人は暑い「夏」、寒い「冬」という区別を自然に与える。
つまり、季節とは人間が感覚(熱い、寒い)に基づいて自然に付与した人為的区分である。
ところが、人為区分は通常は認識されず、人為的区分こそが、本来的なものであると錯覚している。
時間についても同じことが言える。
時の流れはかたちがあるわけでもなく、香りがあるわけでもない。
直接ふれたり、感じたり、はかったり、比べたりすることができない。
映画の主人公が無人島にたどりついて、太陽が昇るのをみて、印をつけて、1ヶ月1年が経ったと記録する。
実は、人間の考え方に基づいて、人為的に、そう決めているのだ。
トム・ハンクス主演の映画『キャスト・アウェイ』 チャック・ノーランド(トム・ハンクス)は、 運送会社で、毎日、時間との戦いのなかで仕事をしている。 彼は、婚約者にすぐ帰ると約束した上で、 貨物機に乗った後に、嵐による墜落事故に巻き込まれる。 彼が流れ着いたのは、南太平洋の無人島であり、生存者はチャックだけだった。 チャックは、岩に過ぎゆく日々を刻みつけながら、救助を待ち続け、 無人島の生活に適応する。 彼は、荷物のなかにあったバレーボールを「ウィルソン」という友に仕立てて、 勇敢に生き抜こうとする。 やがて、ウィルソンは海のかなたにいなくなり、失意の日々を送ることになる。 4年の歳月を経て、ようやく、チャックは自力で脱出して 婚約者に会いに行くが、その婚約者は・・・ 岩に過ぎゆく日々を刻みつけるチャック ウィルソ〜〜〜ン! |
他方、現代人は、時計の針の動きをみて時の経過を経験するにもかかわらず、時が経過したから時計の針が動いたと考える。
つまり、私たちは、時が経過したから、針が動いたのだと考える。
(かたちがあるわけではない時の流れに、人為的に、時間の体系を設定していたのではなかったか?)
Fossil の時計 |
そして、時計の針が止まれば、人は、時間が経過していないと錯覚する。
cf. 図書館で本を読んでいて、時計が止まった場合、時計が動いてないのを見て、人は時の経過を経験できないことがある。
現代人は時計に奴隷化されている!?
人は、自らがつくりだした体系、制度などに縛られてしまう動物なのか?
規則、法律などは、わたしたちの暮らしを快適にするためにつくられたはず・・・
人間はいかに時間を経験するか 人類学者・エドマンド・リーチは、「時の流れは区切れのない連続体である」と言った。 フランク・カーモードによるエドマンド・リーチへのインタヴュー(1982年) 他の人類学者は、時の流れはカオス(混沌)であると言ったが、いずれにせよ、 私たちの日常感覚では、時は、カオスではない。 時間ほど確かな数字はない。 例)ニーチェ(1844〜1900) フッサール(1859〜1938) わたしたちは、こういったかたちで、「人生の時間」を表現する。 時は、個々の人間とは無関係に存在し、個々の人間は、 時の流れに生れ落ちてまたそこからいなくなると考えている。 ↓ 時は、このようにして、人間にとって揺るぎないものとして経験される。 しかし、揺るぎないのは、時の流れではなく、 わたしたちが用いる時間の体系のほうなのである。 「わたしたちはときを止めることができない」 と言うように、時は、人間が操作することができない確固たるものとして経験される。 |
<ここまでのところの、とりあえずのまとめ>
人間は、カオスをカオスのまま認識することができない。
時の経過=時間の体系として経験せざるをえない。
わたしたちは、時間の体系そのものを時の流れとして感じている。
だから、時間を示す時計が止まると、時が経過しないと感じるのである。
しかし、時間の経験がいったい(人生)儀礼にどのように関わるのか?
人の一生もまたこれと同じ。
人は、
胎児、幼児、子ども、青年、成人、
未婚者、既婚者、壮年、中年、老人、死者
といったカテゴリーに区分けして、人の一生を考える。
ある社会の中で人間は一定の役割を期待されている。
それぞれのカテゴリーは人間の自然発達段階ではなく、
それぞれの社会に固有の人間の一生を区分する人為的、文化的なものである。
↓
人生の節目は人為的、文化的、社会的につくられる。
日本の戦国時代 (14〜5歳で元服) |
現代 |
子ども→大人 | 子ども→青年→大人 |
ヨーロッパ中世 | 16〜18世紀 |
不完全な大人→大人 | 子ども→大人 |
↓
ある状態から別の状態への移行を社会的に認めるために
人生儀礼を行い、節目を人為的に設定する。
AKB48の成人式
<@のまとめ>
人間は、香りもなく、匂いもない、「区切れのない連続体」のような混沌状況を、そのままで理解することができない。
そのため、人間は、人為的に、区切り、刻み目をつけて、それを時間として体系化した上で、時計という道具をつくった。
日常生活で、わたしたちは、時間ほど確実なものはないと思っている。
それが、わたしたちの時間経験である。
人の一生も、これと同様のものとして考えることができる。
それもまた、香りも、匂いもない、「区切れのない連続体」である。
わたしたちは、誰もが、何らかの社会的な役割を期待されている。
それは、胎児、幼児、青年、未婚者、既婚者、中年、壮年、老年、死者・・・
といったカテゴリーとして言い表される。
幼児から青年、未婚者から既婚者へと移行するときに、人生儀礼=通過儀礼をおこなって、その移行を区切って、社会的に認めている。
逆に言えば、人生儀礼とは、そのような節目を人為的に設定するためのしかけなのである。
A
象徴分類
文化は象徴と意味の体系である。
(象徴人類学の基本的な考え方)
象徴(symbol)とは、 @ある別のものを指示する目印・記号 A本来かかわりのない二つのもの (具体的なものと抽象的なもの)を 何らかの類似性をもとに関連づける作用。 (例えば、白が純潔を、黒色が悲しみを 表すなど) 『広辞苑』より |
そうした象徴作用は、文化によってさまざまである。
単に「色」だけではなく、「物」「行動」「しぐさ」「匂い」などなど・・・
あらゆる事象・現象が何かを表す。
儀礼には象徴表現がたくさん使われる 儀礼には、<象徴表現>が満ちている。 =一見意味がありそうでいるが、はっきりと分かりづらいモノやしぐさ。 日本の結婚式などでは、別れる、切れる、離れるなどの忌み言葉は使ってはいけない。 |
なぜ人は、象徴を用いるのか?
動植物、自然物、人工物、身体の動作などを含むさまざまな象徴を駆使して、
わたしたちは、世界を組み立てて、認識する。
象徴分類によって世界を認識する。
↓
象徴分類とは、人間の世界認識の手法である!
各地の象徴分類の事例 |
<東アフリカのバントゥー系農耕民・カグルー> 社会集団、属性や方向を二項対立的に捉える。 父系氏族/母系氏族、清浄/不浄、東/西などを用いて世界を認識しようとする。 こうした二元論に加えて、 生者/幽霊/神や、 親族/姻族/敵、 土地/山腹/天上、 生/死/超自然的存在 などの三元論的分類も用いることがある。 彼らは、二つのカテゴリーの間に境界的で両方に跨るものをさしはさんで世界を認識しようとする。 |
<ニューメキシコのズニ社会> 自然界のすべての存在や事象を、 北、南、東、西、天頂、天底、中央 という七区域に分ける七元論が認められる。 この七区域は色にも関係し、 北は黄、西は青、南は赤、 東は白、天頂は多くの色、 天底は黒と関連し、中央はすべての色と関連するとされる。 |
このように、人が分類して認識する対象は、 集団や住居、方角、地域、色、物質や動植物、 そして私たち自身など、多岐にわたっている。 私たちは分類をし、象徴を用いなくては、世界について考えることはできない と言っていいだろう。 |
<Aのまとめ>
私たち人間は、雑多で無秩序なあらゆる事物を象徴的に分類して認識しようとする。
そうした象徴作用をとおして、私たちは世界と関わりつづけている。
私たち人間はつねに、物事をきっちりと切り分けて分類カテゴリーや象徴表現を生みだそうとする。
分類されたカテゴリーにぴったりと収まらないから畏怖されたり、危険とみなされて、象徴的な意味が付与されることもある。
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