【第27回】カリスの宗教民族誌

今日は、ボルネオ島のカリス社会を取り上げて、
宗教的な信仰実践について考察する。

1.最初に、カリス社会の概要を紹介する。

2.次に、「カタベアアン」という民俗知識を取り上げて、
カリス人の宗教実践の一面を紹介する。

3.その後、精霊との交信をつうじて
病気治しを行うカリスのシャーマニズムを紹介する。

4.最後に、精霊との関わりにおいて
病気にならないように行われる祭礼(年中行事)について紹介する。

5.「宗教人類学」の復習
放送大学 文化人類学('14)
第6回 「超越者と他界」



1.ボルネオ島(インドネシア・西カリマンタン州)のカリス



『「精霊の仕業」と「人の仕業」〜ボルネオ島カリス社会における災い解釈と対処法〜』 
春風社、2004年





         カリスとは誰か?

◆インドネシアのカリマンタン四州(西、東、中央、南)は、蘭領東インド、日本軍統治を経て、1949年に独立したインドネシア共和国に属している。

◆全長千キロメートル強のカプアス (Kapuas)河は、インドネシアの最長河川として知られる。ポンティアナックから、木造二階だてのモーターフェリーに乗り込んで、カプアス河を四、五日遡ると、カプアス・フル県(Kabupaten Kapuas Hulu)の県都プトゥシバウ(Putussibau)に到着する。それは、人口5千人程の小さなマーケット・タウンである。そこには、マレー人や中国人、ダヤク諸族、ジャワ人、マドゥラ人などの多様な民族集団が住んでいる。

◆プトゥシバウから小さな乗合バスに乗り、カプアス河中流の町シンタン(Sintang)に向かうリンタス・スラタン(Lintas Selatan)と呼ばれる幹線道路を南下すると、ところどころ舗装されてない道を通って、一時間ほどで、マンダイ郡(kacamatan Manday)の郡長代理事務所(kantor Perwakilan Camat)が置かれているナンガ・カリス(Nanga Kalis)村に到着する。それは、10件程の雑貨屋が並んだ、小さな村である。そこには、警察署があり、インドネシア国軍の一部隊が駐屯していて、社会医療保健センター(Pusat Kesehatan Masyarakat)がある。


◆ナンガ・カリス村から、積み荷を運ぶ船に便乗するか、船をチャーターしてカリス川を遡ると、鬱蒼と茂る熱帯雨林を横目で見ながら、次第にカリス人の住む地域に入っていく。

◆下流域から順に、ナンガ・トゥブック(Nanga Tubuk)村、ナンガ・ダナウ(Nanga Danau)村、ケンスライ(Kensuray)村という三つの村が現われる。3.3馬力の船外機つきの船の航行で、ナンガ・カリスからナンガ・ダナウ村までは約三時間、ケンスライ村までは半日の行程である。

◆ナンガ・トゥブック村とケンスライ村は、カリス人と、カリスと同じダヤク諸族に属するスルク(Suruk)人からなる村である。また、ナンガ・トゥブック村には、1970年代後半インドネシア政府が、人口稠密なジャワ島からの人口を受け入れるトランスミグラシ政策の一部として、灌漑施設が建設され、ジャワ人十数家族が住んでいる。他方、ナンガ・ダナウ村の人口900人のうち、1994ー5年現在、二家族を除く全人口がカリス人である。さらに、カリス人は、マンダイ川の支流のペニウン(Peniung)川とその支流域にも、数家族が住んでいる。カリス川およびペニウン 川周辺に居住するカリス人の総人口は、二千人弱である。



◆行政単位としての村は、それぞれ幾つかの集落(dusun)からなる。村には村長(Kepala Desa)が、集落には集落長(Kepala Dusun)が、現在、村長、集落長は住民投票、または、住民の話し合いによって選出され、郡長(camat)によって任命される。

◆インドネシア政府は、様々な法的問題の処理にあたり、オランダ統治時代の制度としての慣習法(adat)の管理者としてのトゥムングン(temmengung)を任命 している。カリス川流域には一人のトゥムングンがいる。また、トゥムングンの役職の下には、集落ごとにクパラ・アダット(kepala adat)がいて、人々の日常的な揉めごとの調停にあたる。



◆西洋の文献で、カリスの民族名称が登場する最初のものは、1924年のオランダの民族学者ボウマン(Bouman)のものである。そこには、蘭領スミタウ(Semitau)県とカプアス上流県(Boven Kapuas)の住民の民族別人口が記されている。それによると、カリス・ダヤク(Kalis dajaks)は、カプアス上流県に住む人口699人の民族集団である。

◆一方で、サラワクのイバン人は、カプアス河上流のウンバロー(Embaloh)や タマン(Taman)とともに、カリスを、ウンバローの人々を指す時の語彙である「マロ(Malo)」「マラウ(Malau)」「マロー(Maloh)」 という民族名称のもとに、ひとまとめにして呼んでいた。



◆カリスは、ウンバローやタマンの人々と同じように、前世紀から今世紀半ばにかけて、イバンのロング ハウスを転々としながら、銀細工工芸品などを作る生業活動を行った。

◆1846年に、ケッペル(Keppel)はマロの人々からマロの語彙を収集して、マロ語のリストを作製している。1863年に、スペンサー・セイント・ジョン(Spencer St. John)は、カプアス河の水源近くに住むマラウが、イバン人の居住域を安全に行き来し、金や銅細工の工芸品を供給したことを聞き書きしている。その後、 カリス、ウンバロー、タマンは、民族学的研究において、しばしばマローという民族名称とともに登場するようになる。

◆1970年代初めにウンバロー地域で人類学的な調査研究を行ったのは、イギリス・ハル大学の東南アジア研究センターの、キング(King)である。



  カリス社会はどのような社会か?



◆カリス人の居住地に入ると、一戸建ての家 (langko)が川と平行に点々と並んでいることに気がつく。ボルネオ島のダヤク諸族に特徴的なロングハウス(sao langke)は、カリス人居住域には、見当たらない(1995年現在、カリス川流域には、5戸から成る一棟が残るだけである)。

◆現在の一戸建て家屋は、インフォーマントから伝え聞いた、かつてのロングハウスの構造・名称を引き継いでいる。カリスの高床式 の家屋は、階段(tangka)を上がると、そこに、農耕に関わる作業を始めとして、様々な作業を行なうことも可能な物干し場(pasa)がある。表の扉 (katanbangan)を開けると、そこはロングハウスの通廊部(tanga sao)にあたる。通廊部から敷居を隔てて、家族のメンバーが寝食を共にする「寝床」(tindo'an)がある。家族のメンバーは、共通のカマド (dapor)を共有し、寝食を共にする人々である。



◆私がカリス人居住地に入村して、一週間ほどの間は、村の様子を見ながら、私が学校から借りた寄宿舎を生活のための場として整えることに力を入れた。その時に隣にある寄宿舎を引退した後も借りて住んでいる、元のナンガ・ダナウ村の中学校校長であるサバン(Sabang)氏が、細々としたことを教えてくれたり、いろいろな世話をしてくれた。一週間して、私の生活の場が整うのが一段落すると、サバンは、私が間借りした家を祓い清め、彼が私の父親(ama)となる儀礼を行なうように、私に進言した。

◆私は、彼の意向を受け入れ、村人から鶏を分けてもらって、サバンとともに儀礼を行った。それを、カリスの人々は「お互いを結びつける(si-jarat-an)」儀礼と呼んだ。それは、親族のつながりがないところに擬制的に親族関係を確立して、社会関係を円滑にするように働く「擬制的親族制度」を確立するためになされる儀礼であった。

◆カリス人は、夢見(mui)や日頃の親交関係を通じて、親族のつながりのない者同士の間に、比較的容易に、擬制の親族関係をつくり上げることがある。カリス人居住域に長らく留まることになった外来者に対して、「擬制親族制度」は、互いの交流をはかるために有効に働く。そして、このような「制度」が、二年間をカリスの村で過ごしにやって来た外来の研究者にも適用されたことは想像に難くない。

◆私と入村後一週間してできた私の(擬制の)父親との関係 を軸として、私は、カリスの人々に、おじ(kamo')とか、息子(anak)、時には孫(ampu)などとという呼称で呼びかけられるようになった。

◆さらに、ある男性の見た、私を真っ赤な車で、うねうねとした山道をプトゥシバウまで送り届けるという夢は、サバンによって、その男性が私の困難な調査活動を うまく誘導するようになることを意味していると解釈された。夢を見た男性は「お互いを結びつける」儀礼後、私の(擬制の)兄となって、機会ある毎に食事に招いたり、私の調査行に付き合ってくれたりした。私も、また、彼の家族を食事に招いたり、村外に出た時には、彼の代わりに用事を済ませたりした。私の調査期間中、二人が私の(擬制の)父親に、一人が私の(擬制の)兄になった。





◆カリスの「親族組織」を簡単に整理しておきたい。カリスの親族組織は双系的 (bilateral)であると言うことができる。

◆カリス社会のメンバーは、父親(ama)と母親(andu)を通じて辿ることができる親族 (sinsama)に、理論的には、同等の社会関係の比重を置いている。彼/彼女は、兄姉を kaka'、弟妹を ari'と呼ぶ。兄弟姉妹の性別を強調する場合は、それぞれの後に、男性の場合は男(burane)、女性の場合は女(buine)を付ける。また、父親と母親の兄弟姉妹を、全て、おじ、おば(kino')と呼ぶ。第一いとこ(sapu diri)、第二いとこ(sapu ini')を、長幼男女の別によって、兄か姉、弟か妹と呼ぶ。また、父母のどちらの祖父母も、お爺さん(apu nane)、お婆さん(apu dadu)である。一般に、祖父母より上の世代は全て apu toa'(字義どおりには、「昔の祖父母」)である。カリス社会では、兄弟姉妹(kaka' ari')のうち一人が、結婚して配偶者を連れてきて、両親とともに生活するようになるのが普通である。他の兄弟姉妹は、それぞれの配偶者の家に入るか、 新しく家を建てて独立して生計をたてることになる。彼らが、義理の兄弟姉妹(epar)を呼ぶ時には、通常、長幼によって、兄弟姉妹の語彙を使う。義理の父母(matoa)を呼びかける際には、通常、父、母の語を使う。



◆ところで、カリスの人々は、かつて、カリス社会には、貴族(samagat)、平民 (banua)、奴隷(ulun)からなる三つの社会階層が存在したと言う。奴隷は、民族間戦争の捕虜およびその子孫であった。社会階層は、現在では、カリス社会においては、ほとんど機能していない。






 カリスはどのように暮しているのか?

◆カリス川流域は、下流域では、沖積地の森が広がり、上流域になるほど、川沿いの家々に急斜面の森が迫っている。カリス人は、川沿いに展開する森を切り開いて、焼畑稲作(mauma)によって生計を立ててきた。ナンガ・ダナウ村にも、政府主導において灌漑施設が整えられていて、現在、村の人口の一部が水田耕作による二期作を行なっている。しかし、今日に至るまで、カリスの稲作の中心は焼畑農耕である。



◆焼畑稲作のサイクルは、毎年5月か6月に、畑地を決定するための占い(manyurangi tana')を行なうことから始まる。普通、家族の中心メンバーである男性が、畑地予定地に行った夜の家族の夢見を「よい夢(mui mam)」であると解釈したら、翌日、その畑地に出かけて、下草を刈りながら、あるいは、一定の場所に腰掛けて、鳥占い(beo')を行なう。そこで、家人は、七種類の鳥の飛ぶ方向や声を、解釈する。その鳥占いがよくない前兆を示していると解釈した場合、その家族は、別の畑地を捜して、再び夢解釈から始めることになる。

◆1995年5月末、ある男性は、畑地予定地に行った初日の夢見で、魚網を仕掛けて少し漁獲があったという内容を、米の収穫が少ないなりにあるという意味だと解釈した。彼は、翌日から、その畑地予定地で鳥占いを行い、四日目に、畑地でアンダックという名の鳥の声を聞き分けた。彼は、その場で、その鳴き声が「あなた方が捧げ物を畑地に持ってきてくれるのは嬉しい」と言っているのだと、私に語った。この場合の 捧げ物とは、畑地が決まると収穫を祈願して神格や精霊に捧げられる食べ物・飲み物のことで、彼は、神格の化身としてのアンダックが、この地で捧げ物をすることを歓迎していることを伝えていると解釈して、その地をその年の焼畑地に選定したのである。

◆畑地を選定した家族は、畑地に四本の木を使ってパマリアン (pamariang)と呼ばれる儀礼用の台架を組み立てる。その上に捧げ物をのせ、家族のメンバーが、神格・精霊を呼び出して、「稲の生育を祈るための 儀礼(mamariang maruma)」を行なう。焼畑地では、それ以降、家族を単位として、五つの儀礼が行なわれ、それらは、決して省略されるようなことはない。

◆畑地の樹木を 伐採した後に「伐採儀礼(mamariang manabang)」を行い、続いて、火入れ後8月に「種蒔き儀礼(mamariang mamasa' banyia)」、12月に「下生え草を刈る儀礼(mamariang maimbawo)」、刈り入れ前に「稲の魂を括る儀礼(mamariang majarat ase')」、刈り入れ後の2ー3月に「収穫儀礼(mamariang banyia)」を行なう。

◆畑地での作業は、カマドを共有する家族のメンバーを単位とした、家族間のシトゥルス(si-turus)と呼ばれる「労働交換制度」によって行なわれる。例えば、焼畑で、5人から10数人の人々が横一列になり、長さ1メートル半程の穴掘り棒(tungkan)で、穴を掘りながら、種を蒔く作業は、シトゥルスで手伝いに来た人が作業の担い手となる。その日の農作業は、別の日に、等価で、同じ作業において、手伝いに来てくれた人が所属する家族に返す。

◆畑では、陸稲の他にとうもろこし、南京豆、インゲン豆、キュウリ、ニガウリ、トウガン、ナス、菜っ葉類などを栽培し、主に自家用に消費する。森の中に自生するドゥリアン、ランブータン、バナナなどは換金用として集められて、プトゥシバウなどのマーケットに売られることがある。さらに、1980年代後半から、政府の指導で導入されたゴム栽培は、人々の貴重な現金収入源となりつつある。カリス人は、飼育動物として、鶏(ayam)、豚(bawi)、牛 (sapi)を飼う。

◆鶏は、上述した農耕儀礼以外にも、「新生児を家族と見なす儀礼(siangkat sinsama)」「葬送儀礼(kamatean)」などの人生儀礼、家屋建設予定地に「大黒柱を建てる儀礼(pakadeng pakayu)」など、あらゆる儀礼において使われる。そのため、カリス川流域では、鶏の絶対数がつねに不足ぎみである。豚、特に飼い豚(bawin sao)は、その中の特定の儀礼において使われる。カリス川流域には、イノシシ(bawi toan)が豊富におり、大きな籐籠の罠に時々掛かる。カリス人は、イノシシ肉は、飼い豚よりも美味であると言う。飼育動物は、食卓のおかずだけのために屠られるようなことはない。一方、投資と換金を目的として牛を飼っている人々がいる。一般に、牛を飼うことは経済的な豊かさを示していると考えられている。また、カリス川では、亀、小魚、川海老や、カタツムリなどの軟体小動物が獲れる。それらは焼いたり、煮たりして、食卓に饗される。さらに、カリス人は 蛇、鹿、猿などの肉を好んで食べる。

◆カリス社会において、農民一家の平均的な月収は10万〜15万ルピア(五千円〜七千五百円、1995年時点)である。 家屋建築やその他の雑事手伝いの手間賃、畑で栽培した野菜類の販売、森に自生する果物の収集と販売、捕まえたイノシシ肉の販売、収集業者へのゴム販売などが、主な現金収入の道である。



◆また、カリスの人々の現金収入にとって 重要な機会の一つとして「マナモエ(manamoe)」と呼ばれる活動がある。マナモエとは、青年期から壮年期の男性が、一定期間母村を離れ、何らかの経 済的な活動に従事することである。

◆19世紀から1960年代にかけて、カリスは、マレーシアとの国境を越えて、サラワクに出かけて、イバン人のロングハウスを転々としながら、儀礼用の銀細工工芸品などをつくって、生活の資を稼いで帰村した。現在、カリス人居住地に、銀細工職人としてサラワクを渡り歩いた経験をもつ人物は、すでに死に絶えている。マナモエに行って二度と母村に帰らなかった人々もかなりいたようで、彼らの多くは、現地のイバンの女性と結婚し、イバンの言語・文化を身につけ、イバンのロングハウスに留まった。1992年現在では、サラワク・バラム(Baram)河流域のマルディ(Marudi)近郊に、カリスの子孫が住むイバンのロングハウスがある。

◆1980年代に、マンダイ郡を含むカリマンタン最深部の森林で、特有の香りを放つ腐りかけた木質部であるガル(garu)が発見された。それは、ある種類の樹木の樹脂やその他の成分が、長期の埋没の間に、土質、温度・湿度などの条件により化学変化し、香木となったものである。この発見を契機として、あちこちで、しばしば隊が組織され、収集活動が行なわれるようになった。それには、小学校高学年から40 歳代後半までの男性が参加し、彼らにとって重要な現金収入の機会となったようである。カリス社会でも、自らリーダーとなり、香木収集隊を組織した人たちがいる。その結果、カリス川流域でも、何人かの「香木成り金」が出現している。1990年代に入るとマンダイ郡地域の香木は収集し尽くされ、1990年代半 ばには、カリス川流域で編成された隊は、カプアス河の水源近くの森に遠征に出掛けるようになった。







    カリスはどのように「インドネシア人」であるのか?

◆カリス人居住地の村には一村に一校の割合で小学校がある。インドネシア国旗の色をあしらった白のシャツと赤のズボン、スカートの制服は、どこででも目にすることができる。現在、カリス人居住地では、約9割以上の生徒が小学校を卒業する。

◆小学生たちは、午前中に学校の授業が終わると、いったん家に戻ってから、あるいは、直接、親たちのいる焼畑の出作り小屋 に、連れ立って出掛けていく。彼らは、学校からの帰り道、あるいは、焼畑に向かう道などで、インドネシア国歌を大声で歌ったり、また、学校で習うインドネシアの国是(pancasila)を練習しながら歩いていくことがある。就学児童以外の親や祖父母たちは、国家(negara)について、就学児童から学ぶことも多いようである。国語としてのインドネシア語は、小学校の必須科目として教えられている。

◆カリス人居住域のリンガ・フランカは、カプアス河上流方言のマレー語で、カリスの多くは、カリス語の他にマレー語を話すことができる。また、ほとんどの男性が、インドネシア語を自由に操ることができる。1960年代以降に出生した人々は、概ね、インドネシア語に堪能である。しかし、とりわけ、第二次大戦前に出生した女性の大半は、インドネシア語を知らないか、片言のインドネシア語しか話すことができない。



◆学齢期に達した子どもは、小学校に入るために、どの宗教に属しているのかを明確にしなければならない。このことは、国民は、イスラーム、カトリック、プロテスタント、ヒンドゥー、仏教の五つの宗教(agama)のうちのどれかを信奉しなければならないとするインドネシアの宗教政策に基づいている。

◆現在、カリス人は、名目上99%以上がカトリック教徒である。ローマ・カトリックのミッションは、1948年にカリス川流域で布教を開始した。そして、その年に、カリス人の中から三人の男性が、最初にカトリックに改宗して、洗礼名を授かっている。1970年代末には、ナンガ・ダナウ村に教会が建設され、カトリックは一挙にカリス人の間に広がった。1995年時点で、カリス川流域で二番目のカトリック教会が、住民の発意と資金収集によって、ナンガ・ダナウ村ランタウ・カリス集落において建設されることが計画されている。



◆ナンガ・ダナウ村とケンスライ村は、1993 年(スハルト時代)にインドネシア政府によって発令されたIDT(イー・デー・テー)と一般に略称される「取り残された村に対する大統領令(Inpres Desa Tertinggal)」において「取り残された村(Desa Tertinggal)」に分類され、プログラムの対象村落に指定されている。IDTのプログラムは、従来注力されてこなかった辺境および後進地域の開発を推進するためのプロジェクトである。

◆隣接する幾つかの「取り残された村」の計画を側面的に支援・指導するために、ポンティアナックおよびジャワ各地で特別の教育・訓練を受けたプンダンピン(pendamping)と呼ばれる指導員が派遣される。各村は、プンダンピンの協力のもと、計画を立案し、それを実 行している。具体的には、1994年度から、初年度、二年度に各々2千万ルピア、三年度に3千万ルピアの合計7千万ルピアが一行政村に対して配分され、そ れぞれの村で決めたプロジェクトの計画に従って取り組みがなされる。平均的なカリス人農民にとって、政府の提供する資金と計画に沿って独自の計画を立案し、推進することは、これまでになかった経験である。




2.カタベアアン 〜すすめられた酒の断り方〜




カリス社会でフィールドワークを始めてから、私が最初に一番多く耳にした言葉が「カタベアアン(katabea’an)」であった。

村の中を歩いていると、大抵どこかの家からちょっと家に上がって行けと声が掛かる。家に上がり込むと、必ずと言っていいほどヤシ酒( tuak )、米酒( geram )、コーヒー( kopi )などが振る舞われる。

それがカリス流の歓待の方法である。

その時、今しがた飲んだばかりだとか、胃腸の調子がよくないなどの理由で、出された飲み物を飲みたくないなら、コップを単に突き返すだけでは許されない。

しかじかの理由でいらないと言っても、なお少しだけでも飲むように薦められることが多い。

その時いらないと言ったら、その場の誰かが「カタベアアン」と命令口調で語尾を上げて言うかもしれない。

これは出された飲み物を皆で飲みましょうという合図であると同時に、飲み物を目の前にして放っておくとその人がカタベアアンになることを危惧して発せられる親切の言葉でもある。

そう言われた場合、一口二口その出された飲み物を啜るだけでよい。

しかし、そう言われてもなお飲む気がなかったり、飲んではいけない何らかの理由(例えば、ドクターストップがかかっているなど)があるなら「タベアイ( tabea‘i )/マナベアイ( manabea’i )」するように、すなわち、コップに軽く右手指で触れるように命じられる。

より精確に言えば、出された飲み物を摂らない人は「私を解き放っておくれ!( palapas ku! ) 」と呟いて、右手指をそっとコップに触れてから、素早くそれを胸にあてる動作を行なう。

カリス社会においては、このような行為がかなり高い蓋然性をもって行なわれている。

そして、それは、カタベアアンになると、病気や死に見舞われたり、蛇やムカデなどの小動物に襲われたりするのを回避するために行なわれるのだと、大抵の場合は説明される。





ある女性シャーマンは、人間はアントゥ( antu )と総称される霊的存在に通常怖がられているが、カタベアアンになると人間がアントゥにとって「動物」に見え、人間の霊魂( sumangat )がアントゥに攻撃されるのだと説明してくれた。

つまり、アントゥはカタベアアンで「動物」に見えるようになった人間の霊魂を襲うので、人間の霊魂が弱体化して、病気になるという。

さらに、別の男性バリアンは、カタベアアンになると人間がアントゥから見て攻撃すべき「アントゥ」に見えるのだと説明してくれた。

カタベアアンになると人間の霊魂が「動物」や「アントゥ」に見えて攻撃されることで、弱体化し、その結果人間が病気になるというそれらの説明は、私を一時的に納得させることができた。

ところが、このような論理だと、今度は、カタベアアンになることで人間が蛇やムカデなどの動物に襲われるプロセスに、アントゥがどのように関わっているのかが平明ではない。

すなわち、アントゥが小動物に命じて人間を襲わせるのか、あるいは、アントゥが小動物に変身して人間を襲うのか。

また、病気の場合は、アントゥは人間の霊魂を攻撃したのに、怪我の場合、仮にアントゥが小動物に変身したとすると、小動物は人間の霊魂ではなくて、直接的に身体を攻撃目標とするのか。

これらの問いに、バリアンは明確な答を用意していないように思えた。

また、カタベアアンが「なぜ」出された食べ物や飲み物を摂らないことと関係するのかと尋ねると、バリアンも含めてカリスの人々は「知らない( bea ngata'uang )」と言って、一様に口を噤んでしまうのである。

このようにして、カタベアアンに対する「なぜ」の問いを当事者に浴びせ掛け、その現象自体を解明しようとする企ては、この時点で大きな壁にぶちあたることになる。

当事者からカタベアアンに対する「なぜ」の問いに対する答えを引き出そうとする試みの失敗は、そのような問いがカリス人の間で問われるものでないこと、すなわち、カリス人にとってカタベアアンがとりたてて説明の必要のないものとして考えられていることを明るみにしてくれる。



カリスは、カタベアアンそのもの「について」語ることはほとんどない。

むしろ、カリス人においては、病気、死や怪我などの災いこそが、カタベアアン「によって」説明されることになる。

この意味で、カタベアアンは、災いを説明するために使われる民俗知識 folk knowledgeである。

「出された食べ物・飲み物を摂らないか、摂らないことに対する適切な処置をしないと、(カタベアアンになり、その結果)病気や死、蛇やムカデなどの小動物に襲われて怪我をするなどの災いに見舞われる」というのが、カリス社会において共有されている、伝承されてきたカタベアアンの知識である(丸括弧内の語句が当事者において意識されるかどうかは文脈に依存している)。

当事者は、この知識の細目「について」それ以上問うことはない。

むしろ、彼らは、この知識「によって」、災いを説明するための推論をしたり、災いに対処するための行為を遂行する。



  推論形式としてのカタベアアン

ある娘が亡くなった。

遺体の埋葬後、親戚・関係者一同を集めて開かれた話し合いの場面において、死んだ娘の父親A氏(四十五歳)は、彼らの協力で葬儀が無事に終わったことに対して謝意を述べ、娘が嘔吐と下痢で死亡したことに言及した直後に「おそらく娘はカタベアアンだったのでしょう」という彼自身の推測を述べた。

その後、以下のように続けた。

「(亡くなる前に外出から戻った娘は玄関先で)『もし我々が(出された)コーヒーを飲まなかったらカタベアアンになるのですか、お母さん』と尋ねたのです。

母親は『そうですよ』と答えました。

しかし、彼女(=娘)はそれ(=コーヒー)をどこで見たのかについては言いませんでした・・・おそらくアントゥに食べられてしまったのです」

A氏によると、彼の娘は死の直前、出先から戻って母親に、出されたコーヒーを飲まなかったらカタベアアンになるのかどうかについて質問している。

このことから、彼女は、どこかで出されたコーヒーを、見ただけで飲まなかったので、カタベアアンになって、アントゥに食べられて死んでしまったというのが、A氏の見解である。

ここで重要なことは、A氏の発話において、娘が嘔吐と下痢という急性の消化器疾患によって亡くなったという因果関係とは別に、娘が出されたコーヒーを飲まなかったのでアントゥに食べられて亡くなったというもう一つの因果関係が語られていることである。

 <目に見える因果関係>
嘔吐と下痢が死を引き起こしたという因果関係

 <目に見えない因果関係>
(T)娘が出されたコーヒーを飲まなかったこと
         ↓ 
(U)その娘が亡くなったという出来事

A氏は、(T)の出来事がカタベアアンを引き起こして、(U)の災い(死)を帰結したかのように語っている。

ところが、A氏の推論そのものは、実は、これとは全く逆の順序を辿っている。

つまり、A氏は、(U)が起こった時点から、遡及的( retrospective )に (U)を(T)に結びつけたのである。

この場合、娘は嘔吐と下痢で死んだのだと言うだけでは、A氏にとって、また、カリスの人々にとって得心がいかなかったのだろうか?

葬儀に参加した人々は、あらかじめ、嘔吐と下痢で少女が亡くなったと聞いた上で列席した。

そして、嘔吐と下痢でA氏の娘が亡くなったと聞くだけで何の不都合もないように思える。

だとすると、A氏はこともあろうに自分の娘にだけ降りかかった災いをそのような事実関係だけで了解するわけにはいかなかったのかもしれない。



  行為形式としてのカタベアアン

カタベアアンは、言わば、災いが将来的( prospective )に語られることがないことを祈念して行なわれる行為形式を備えている。

カリスの当事者においては、出された食べ物・飲み物は僅かでもいいから摂る、あるいは適切な処置をするという行為は、「災いの物語が成立するのを防ぐ」のではなくて「災いが起きるのを防ぐ」ために日常生活の中で反復的に行なわれる。

私が、D氏(男性、六十歳)の焼畑に火入れを観察しに行った日の何気ない出来事である。

D氏は、出作り小屋の傍らで尻尾を振っている黒い飼い犬の存在に気づいた。

彼は出作り小屋から昼飯の残りの米飯の入った飯盒を取り出して、その飯盒を左手で持つとそれに軽く右手を触れ、その右手を素早く胸にあてて「私を解き放っておくれ!」と唱えた。

今度は、私にその飯盒を差し出しながら、「カタベアアン」と語尾を幾分あげながら囁いた。

私も彼の行いをそのまま模倣した。

その直後、D氏はその残飯を、鷲づかみにして皿の上に取り出し、犬に餌として与えた。

この行為によって、我々二人は、将来的に災いの物語が成立するのを未然に防いだことになる。

我々二人の経験としては、災いが起きるのを防いだと言う方がより実情に近い。

このようにカタベアアンをめぐる行為形式は、人間の食べる物・飲む物だけでなく、飼育動物(犬、猫、豚など)の餌に対しても適切な処置をすることを要求する。

餌、あるいは餌の入った容器に軽く触れて、おきまりの言葉を発しなければならないのである。

さらに、災いが起きるのを防ぐために、カリスの人々は食べ物・飲み物に対してハイパーセンシティヴな対応を生み出してきた。

年寄りの女性の多くは、道を歩いている時に、通りすがりの家の中から料理や食事の匂いがしただけで「私を解き放っておくれ!」と呟いて、右手を胸に持っていく。

また、ある半盲の女性は、日常会話の中で、自分であれ他の人であれ、食べ物や飲み物に関する言葉(例えば、ご飯やコーヒー)を発した時にはつねに、「私を解き放っておくれ!」と呟いて、右手を胸に持っていく所作を行なっていた。

このことによって、彼女たちは、少なくとも彼女たちの経験としては、災いが起きるのを未然に防いだことになる。

それでは、食べ物や飲み物が出された場から離れて、食べ物・飲み物に対する適切な処置をしなかったことに気づいた場合はどうするのか?

後に災いが降りかかるかもしれないのだから、カリスにとって、そのことは大ごとであるはずだ。

カリスは、そのことを、後から気づいた時は、その場で自分の目と口に右手指を軽く触れるという行為でもってその解決としておくようである。

そのことで、「そのものを見て、かつ食べた(飲んだ)」ことにして、災いが起きるのを防ごうとする。

筆者は、たった一度だけ、ある男性と森の中の道を歩いている時に、彼がこのことをするのを目撃したことがある。

また、カリス人の村を取り巻く森の中にはたくさんの邪悪なアントゥ( antu jat )が潜んでおり、それらが、食べ物・飲み物に関する「言葉」を聞いただけでも過剰反応して、言葉を発しただけで摂取しなかった人間の霊魂を攻撃してくるかもしれないので、カリスは特に森の中で用いる食べ物・飲み物の語彙を発することには慎重である。

そして、特に森の中だけで使う日常語以外の語彙群を発達させてきた。

◆食べる( kan ) →(鶏が)つつく( manotok )
◆ご飯を炊く( masak dakan )→熊の頭を焼く( manutungi ulu baruang )
◆卵( talor )→地面の石( batu tana )
◆コーヒー( kopi )→灰の水( ae bara' )



        まとめ

カタベアアンは、推論形式だけに留まらず、災いの出来事が将来的に語られることがないために、すなわち、災いが起きないために行なわれる行為形式を備えている。ところが、出された食べ物・飲み物を摂らない場合に適切な処置をしなければならないという作法の遂行に、人々がどれだけ留意していたにせよ、どこかでこの作法の完遂を怠ってないとは限らない。

食べ物・飲み物の名前が唱えられるか、匂いがしただけでも、「私を解き放っておくれ!」と唱えて適切な処置を心掛けている人が、是が非でもそうしなければならないのだと言い張るならば、日常的に様々な作業に忙しく従事している人が、この幾分過剰ぎみの作法をそのつど成し遂げることは事実上無理である。

従って、カタベアアンにならないためのあらかじめの行為の形式があるにも拘らず、災いが生じた時点で、出された食べ物・飲み物に対して適切な処置をしなかったという事実を捜し出すことはそんなに難しいことではない。

かくして災いは、カタベアアンという知識を通じて、組織されることになる。






3.カリスのシャーマニズム


カリスの人間観

カリスは、人間(tau)は
<身体(tilino)>と<霊魂(sumangat)>
から成ると考えている。

精霊(antu)は、
人間と同じ空間に存在するが、
森のなかに
たくさんいると考えている。




災いの原因 対処法
@
精霊の仕業
(kana antu)
人間の霊魂が身体から遊離し、精霊に捕われていることによって引き起こされる 自然界と霊界を自由に往き来して、捕らえられているとされる霊魂を取り戻すことのできるバリアン(balian)を呼んで、治療する

シャーマン(=バリアン)による儀礼は、日没から翌朝あるいは翌昼にかけて行なわれる
A
人の仕業
(kana tau)
実在する人間によって仕掛けられる、経口摂取される毒薬、そばを通り過ぎると病気になるとされる、小さなボトルの中に入れられた薬、呪文を唱えて飛ばすことで病気を引き起こす呪具、動物を使った邪術の類など、人間の関与するものに引き起こされる 有効な対症機能を持つ対抗薬の所有者を探し出して治療を依頼する




以下では、「精霊の仕業」であるとされる面に焦点をあてて、
シャーマニズムを取り上げて、説明する。



1.
成巫過程

成巫は、
巫病の克服の過程


<幼少期>


・身体の具合が悪く、
閉じこもりがち
⇒人間関係がうまくない

・時に
人に見えないものが見えて
周囲の人を驚かせたりする

⇒狂っていると言われて、
ふさぎ込む


<青年期>


夢の世界を現実世界に
置き換え、
夢に現れる異性と情交
を結ぶ

⇒石(batu balian)
となって枕元へ

シャーマンではないかと
疑われて、
先輩シャーマンに見習って
儀礼に参加




巫病(肉体/精神)を克服して、
その特殊な能力を他の人々のために
役立たせるために社会参加する過程
=成巫過程



シャーマニズムの実際

カリス社会のシャーマン数
 10人/2000人(男女)
(1994〜1995)
  
シャーマン(バリアン)は
霊界に魂を送り込んで
病者の霊魂を捕らえている
精霊を殺害し
霊魂を奪い返してくる。

その後、
霊魂を身体に再定位
する。

夜通し儀礼のパフォーマンス




バリアン儀礼のクライマックス


@ バリアンが、病者の霊魂を捕らえている

「精霊の殺害( mamuno‘ boo )」

のパフォーマンス、

A 精霊に捕らえられている病者の

「霊魂を取り戻す( maningkam sumangat )」

パフォーマンスを行なうくだり

B 病者の頭頂部を通じて、取り戻した

「霊魂を身体へと戻す( mananami sumangat )」

パフォーマンスを行なうくだり

これらがバリアン儀礼のパフォーマンスの主要テーマであるということができる。




それは、
科学知識に基づく近代医療
とは異なる病因論なのである。

シャーマニズムは、
目に見える現実だけでなく、
目に見えない現実との
関わりにおいて、
私たちの病苦や悩みなど、
諸問題を解決しようとする。

それは、
人類が旧石器時代に獲得した
認知システムに基づく
儀礼的実践ではあるまいか。


一つの事例

身の周りで相次いで
起こる死が、
カリスの少年イドリス
をおかしくさせていた。

何かにおびえ、
夜にはうなされる
ようになり、
高熱が続いた。

イドリスは、
ひんぱんに、
この世のものではない存在を
見るようになった。

そのことに震えあがって、
発狂せんばかりとなった。

女性シャーマン(バリアン)
が呼ばれて、
夜通しの儀礼が行われた。

シャーマンは、
イドリスの家族と協力して、
儀礼の場で、
イドリスを惑わしている
邪霊を殺害し、
精霊との闘いを制することで、
イドリスを落ち着かせるのに
見事成功した。

イドリスの高熱も
同時に引いた。




4.精霊とたたかう戦士たち
ーボルネオ島カリスのウンパンタンバンー


  カリス( Kalis )川は、ボルネオ島のほぼ中央を走る山脈に水源を持ち、そこから北方向に流れ、マンダイ川に注ぎ込む小さな川である。カリス川がマンダイ川に合流する地点には、カリス川流域の住民の交通・商業の起点となるナンガカリス村がある。


 10月のある日、8馬力の船外機を取り付けた 小さな木舟は、コトコトとエンジン音をさせながらナンガカリスを出発し、カリス川に入る。舟は、鬱蒼とおい茂った緑の魔境たる熱帯雨林の中をくねくねと曲 がりながら、次第に幅が狭くなる水路を進んでゆく。運がよければ、原色を身にまとった鳥が勢いよく飛び出し、甘い歌声を響かせながら、木から木へと飛び 移って、森の奥深くへと水先を案内してくれる。

 一時間を過ぎてカリス人たちが住む地 域にさしかかったあたりから、森を切り開いた川べりのスペースに、布を巻かれ、先の尖った竹を添えられた十数体ほどの木像が川に沿って並べられている異様な光景をあちこちで目にするようになる。木像たちは、襲撃する外敵を威嚇し、事あらば立ち向かわんと待ち構えて並んでいるように見える。それは「ウンパン タンバン(=木像に食べ物を捧げる)」と、カリスの人びとが呼ぶ共同体の儀礼が、比較的最近、時をほぼ同じくしてカリス川流域のカリス人集落で行なわれた 跡である。

 カリス人は、インドネシア・西カリマンタン州内陸のカリス川流域およびその周辺に住む、人口二千人弱の焼畑稲作民である。台所を共有する家族が平均して15ー30戸程集まって、100〜200人からなる一集落を形成している。



【病いの季節が来る前に】

 カリス人の農耕サイクルは、例年5〜6月に、家長が焼畑予定地から戻った晩に見た夢を占うことから始まる。夢見がよければ、焼畑予定地に出向いてお告げの鳥がやって来るのを待つ。お目当てのお告げの鳥の歌声を聞いてはじめて、骨の折れる畑地での樹木伐採の作業が始められる。樹木の伐採が終わる8月頃になると、今度は火入れをするために、伐採された 木々が十分に乾燥することが期待されるようになる。

 ところが、その頃になると、数日、日照が続いて木々が乾いてきたと思っても突然スコールが襲って木々は 湿ってしまい、きまってカリスの人びとをヤキモキさせることになる。木の焼け具合が悪いと土地への肥料が十分でなく、収穫に影響を与えることになるからである。人びとは、木々が十分に乾いた頃を見計らって畑地に火を入れる。

 こうした理由から、乾季は、人びとに 恵みをもたらすために訪れるべきものとして期待されているが、その一方で、好ましくない季節であるとも考えられている。乾季は、カリス語で「病いの季節」とも呼ばれるように、川の水が干上がって細菌性の疫病が頻発し、死者が出て弔いが多くなされる忌み嫌われる季節であるのだ。

 カリス人は、精霊が、人間の霊魂を攻撃したり、奪い去ることによって、人間に病気、ときには死をもたらすと考えている。各家の木像は、人間の代わりに精霊とたたかうという重要な使命を課される。以下で見るのは、1994年の10月のある日に一集落で行なわれたウンパンタンバン儀礼の過程である。



【いくさの装いを整える】

 集落の各家は、儀礼の日の朝早く、力仕事がで きる成員を儀礼予定地へと向かわせた。儀礼の場は、精霊が潜んでいるとされる森と人間が住む集落の境界域である、集落のはずれの川沿いの地に設定されてい る。そこは、一年の間人間が近寄らなかったせいで草木に覆われている。彼らは共同してあたりの草木を伐採し、整地しながら、自分の家族の木像を探し当て た。そして、木像を地面から引き抜いて、その場所からずらし、再び突き立てた。続いて、彼らは持参した布を取り出し、それを鉢巻として木像の頭部に巻きつけたり、腰巻として下半身に巻きつけたりした。さらに、竹から槍や刀、盾などの模型をこしらえて、木像に持たせるようにして添えた。このようにして、木像は次第にいくさの装いを整えられていった。

 各家ごとの作業を終えた人びとは、今 度は集落の木像たちの「戦力」を強化するべく、竹からミニチュアの槍を作って、それらを地面から川に向けて斜め上方向に並べて突き刺した。竹から作られた 近代兵器「戦闘機」もまた、いくさの道具として加えられた。その後、彼らは、川と平行に一列に並べられた木像群のまん中に、地面から1、5メートルのあた りに1×2メートルほどの長方形の竹製の台架を設える作業を始めた。それは、集落の人びとが木像に対して共同で捧げ物をするための台である。



【木像を祓い清める】

 儀礼の場が整えられて第一陣が家に戻ると、入れかえに、各家から別の数人のメンバーが、生きたニワトリ一羽と一盛りの米粒を入れた皿を持って儀礼の場にやって来た。儀礼の場に着くや、家族の一人が太 陽の登る方角を背にして自分の家の木像の前に立ち、ニワトリの両足を左手で持って、それを前後左右に振り回しながら、大きな声で祈りの文を唱え始めた。

人間を守ってくれる木像を清める/花が咲く季節、実りの季節に病気がやってくる

あなた方は固い木からつくられた木像/あなた方は我らを守り、保護する

あなた方は病気から我らを守るための要塞、岩となる(中略)

あなた方が勇敢に、強くなるように清める/あなた方は病気に負けることはない

たたかって倒れることはない、死ぬことはない/ニワトリはあなた方への捧げ物

用意した戦闘機を使いなさい/あなた方はいくさで負けることはない

我らが病気、困苦、危険、疫病、精霊たちから遠ざかるように(後略)


 ニワトリは、竹を削って作られた刀で 喉を切り裂かれて、その場で屠られた。鮮血は皿の中の米粒の上に受けられて、混ぜ合わされた。家族の一人が、米粒とニワトリの血を混ぜたものを、左手指で少量ずつ摘み上げながら、川の方に向かって放り投げた。それは、精霊のうちで、とりわけ「なまもの」を食べることを好む精霊に対して執り行なわれる儀礼である。儀礼を行なう者は、血の着いた米粒を遠くに撒き散らしながら、精霊がそれを住み処に持ち帰り、人間に近づかないように、人間を病気にすることがないようにと唱えた。



 集落の人びとが午前中に行なう儀礼の 手続きは似たり寄ったりである。ある家族がこの「なまものを撒き散らす」儀礼を行なうと同時に、別の数家族が同じことを行なったために、儀礼の場では祈り の文が重なり合い、川と森にこだまして聞えた。この儀礼を終えて各家族は別々に、殺したばかりのニワトリを料理して食べるために家に持ち帰った。



【精霊と木像への捧げ物を支度する】

 カリスは、食べるためだけにニワトリを屠ることはない。ニワトリは、何らかの儀礼の際にはじめて口にすることができる蛋白源である。彼らは、時間をかけてニワトリを料理する。その際、臓物や肉片の一 部は儀礼の場に持って行くために、あらかじめ、別の皿に取り分けられる。家族が集まって食事を終えると、手の空いた者が米の粉をこね上げて、手の掌におさ まるほどの人形(ひとがた)をつくり始めた。その人形は、後の儀礼で、人間の代わりに精霊に襲われて病気になるとされる「身代わり」である。家で飼っている犬猫、財産としての銅鑼なども、それぞれの身代わりを象られた。出来上がった身代わりは、大きな葉の上に並べられた。

 次に、家族のメンバーは全員で、ニワトリの臓物と肉片の料理、餅、米酒、人形を携えて、先程の儀礼の場に向かった。儀礼の場に到着するや、家族のうちの一人が、料理されたものと飯粒を混ぜあ わせたものを右手で摘まみ上げて、今度は「料理されたもの」を好んで食べる精霊に対して放り投げながら、それらを住み処に持ち帰って、人間に近づくことがないように祈願した。食事を終えて儀礼の場へとやって来た集落内の家族が、一斉に唱えごとを行なったので、儀礼の場は祈りの大合唱となった。その後、各家が持参した料理された食べ物や飲み物が、少量づつ集められて、中央の台架の上にのせられた。それらは、人間から精霊への捧げ物であり、かつ「精霊とたたかう戦士」のための食事である。



【木像と精霊に対する祈願】

 集落の長老によって祈りの文が唱えられるのは、集落のほぼ全員が儀礼の場に出そろってからである。長老は、種々の精霊をその場に呼び出して食べ物・飲み物を与え、彼らの場所に帰ってもらうために、集落を代表して祈願することになっている。また、木像に対しても、邪悪な霊とたたかうように唱えるのである。人びとはその場に腰掛けるか、立ったまましばらくの間じっと静かにその文言に耳をかたむけていた。長老はカリスの英雄物語を朗々と謡いあげた後に、次々と祖霊を呼び出して、かつて彼らが行なったのと 同じように、今ここで儀礼を行なっている旨を告げた。

あなた方(=祖霊たち)よ、お腹一杯になるまで食べなさい

食べ終わったら残りは持ち帰りなさい、背負ってきた背負子に入れて

花が咲き、実がなる季節、我らは精霊に襲われるのを恐れる

我らがあなた方に近づくことがないように


 長老は祖霊たちに対してこのように唱えた後、カリスの神の名をあげて加護を訴えた。また、木像に対して、用意された武器類を使って、人間に病いや死を引き起こそうとする精霊とたたかってくれるように唱えたのである。しばらくはじっとその祈りの言葉に耳を傾けていた集落の人びとは、途中から、持参したヤカンの中の米酒をコップに注いで、振る舞 い酒をし始めた。人びとはほどなく他の家族から返杯され、小一時間続いた長老の祈りが終了する頃には、その場はすっかり酒宴の場と化し、喧騒に包まれていた。





【身代わり儀礼】

 儀礼の最終ステージは、木で組んだ筏の上に米粉からつくられた集落の全ての身代わりの人形をのせて川に流す儀礼である。「あなた方(=精霊)は米の粉を病気にしてしまえ!」という長老の叫び声を合図として、筏は川に流される。この儀礼の目的は、米粉でつくられた人形こそが、精霊が霊魂を奪おうとする人間たちであると告げて精霊たちをだまし、米粉の人 形に人間の身代わりをさせることで、集落の人びとに病気や死などの災いが降りかからないように仕組むことである。




【年中行事としてのウンパンタンバン】

 1994年、ボルネオ島は三十年振りという長 い乾季に見舞われ、カリス川は干上がった。カリス人居住域では、生水を飲んだ人のなかに消化器系の疾患が多発し、それがもとで一ヶ月の間に10人もが命を落とす悲惨な結果となった。そのような結果は、ウンパンタンバンで儀礼上の手続きに手抜かりのあったせいなのだろうか。あるいは、儀礼で食糧を与えた「精霊とたたかう戦士」たちが精霊たちの攻勢に負けたせいなのだろうか。筆者が知る限り、カリスの人びとは事のなりゆきをそのように捉えてはいなかった。

 彼らは、その年の病気や死をそれぞれの病・死者の日常生活の文脈に遡及的に結びつけこそすれ、その頻発を集落が共同して行なったウンパンタンバン儀礼の成功・不成功と結びつけて考えるようなことは決してなかったのである。そして、翌1995年にも、前年とほぼ同じ時期に同じようにして、それぞれの集落でウンパンタンバンは行なわれたのである。

 毎年この儀礼を行なうカリスの人びと は、儀礼を準備し、執り行なうという行為そのことを通じて、皆で協働して、病気や死を引き起こすのが、木像がたたかう精霊であるという社会的な現実を構成し、それと反照的に、木像が人間の邪魔をする精霊とたたかってくれるので、将来的に病気や死などの災いが人びとにふりかかることはないという「信念」を構成している。参加する集落の人びとにとって、ウンパンタンバンは、来たるべき病いの季節に病気や死が起きるのを防ぐための一つの機会として経験されるのである。例年10月頃に、集落ごとにウンパンタンバンは行なわれる。それは、カリス社会の年中行事の一つである。





【番外編】

文学作品を読もう!


最良の文学は、「神殺し」の文学である。

作家は、現実の醜悪さを乗り越え、
作品のなかに別の世界を築き上げる。

世界にはもっともっとすごい文学があるはずだ。

それは、知を鍛え、人間を考える最上の方法である。





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