【第6回】異文化を理解する

今日は、異文化、他者を理解することについて、とりわけ、その難しさの面から考えてみたい。

1.シェークスピアのハムレットをめぐるアフリカ人の解釈.

2.八代亜紀の「雨の慕情」をめぐるインドネシアのエンデ人の解釈

を題材とする。




アフリカのティヴ人による
「ハムレット」の解釈について




ハムレットのあらすじ


人物相関図

最近急死したデンマーク王が、
息子
ハムレットの前に亡霊となって現れ、
自分が妻
ガートルード
自分の弟
クローディアスの陰謀に
よって殺されたことを明らかにする。

ハムレットの母
つまり先王の妻(ガートルード)は、
夫の死後一ヶ月も経たないうちに
先王の弟を夫として迎える
という不道徳な再婚をし、
先王の弟は不当にも、
本来ならばハムレットが
つくべき王位についている。

そのことで、ハムレットは思い悩む。

ハムレットには
オフィーリア
という恋人がいる。
彼女は大臣
ボローニアスの娘である。
狂気をよそおって心を
明かさないハムレットが
何を考えているのかを探り出すために、
大臣が陰にひそんでいるとき、
ハムレットは王と誤って大臣を殺してしまう。

自分の父を恋人に殺された上、
恋人のハムレットに捨てられた
オフィーリアは、狂気に陥り川で溺死する。

オフィーリアには放蕩息子の兄
レアティーズがいた。
ハムレットはレアティーズと決闘することになる。
ハムレットを亡き者にしようとして、
クローディアスは毒杯と毒剣を用意する。

ガートルードは知らずに毒杯を飲んで死ぬ。

決闘は相打ちになり、2人とも死んでしまうが、
その前にハムレットは先王の弟を毒剣で殺す。

登場人物全員が死ぬシェークスピア
悲劇


ハムレット




Laura Bohannan, Shakespeare in the Bush



ナイジェリアのティヴ人

アフリカの地図

はたして、ナイジェリアのティヴ人は、
この悲劇をどのように解釈したのだろうか?


若い人びとに対する教訓の物語

ティヴ人は、物語の背後に、

父系親族組織
(子はすべて父の親族集団に属する)、

レヴィレート婚
(未亡人が死んだ夫の弟といった男性親族と結婚する制度)、

呪術
(狙いをつけた相手を病気にしたり殺すための神秘的な手法)

などを見出して、
彼らの文化に適合的な物語として読み解いたのである。

その結果

テイヴ人の「ハムレット」解釈

先王の死後、弟が王位につくのは当然であり、
 (先王の未亡人と弟が結婚したのはとても)
道徳的なことである。

先王の亡霊とは、
呪術師が送ってよこしたものである。

オフィーリアが溺死したのは、彼女の兄の呪術による。

呪術をかけることができるのは(父系親族)だけ。

兄は、放蕩の末金に困っていたので、
死体を別の呪術師に売るために呪術で妹を殺したのである。

ティヴ人にとって、「ハムレット」は、(呪術にまどわされ、
「父」でもある現在の王を殺そうとして長老の権威を無視した)
ハムレットが、(若造ゆえに身を滅ぼす)、という

「若い人びとに対する教訓的な物語」

として解釈された。




インドネシアのエンデ人による
「雨の慕情」の解釈について


八代亜紀『雨の慕情』


雨の慕情


作曲:浜圭介、作詞:阿久悠

1.

心が忘れた あのひとも
膝が重さを 覚えてる
長い月日の 膝まくら
煙草プカリと ふかしてた
憎い 恋しい 憎い 恋しい
めぐりめぐって 今は恋しい
雨雨ふれふれ もっとふれ
私のいいひと つれて来い
雨雨ふれふれ もっとふれ
私のいいひと つれて来い


2.

ひとりで覚えた 手料理を
なぜか味見が させたくて

すきまだらけの テーブルを
皿でうずめて いる私
きらい 逢いたい きらい 逢いたい
くもり空なら いつも逢いたい
雨雨ふれふれ もっとふれ
私のいいひと つれて来い
雨雨ふれふれ もっとふれ
私のいいひと つれて来い

雨雨ふれふれ もっとふれ
私のいいひと つれて来い
雨雨ふれふれ もっとふれ
私のいいひと つれて来い




ある日本人人類学者(青木恵理子さん)が、
インドネシア・フローレス島で現地調査をしていたときのこと。


インドネシアの地図

フローレス島のエンデ

家に集まっていた村人たちが集まって、トランプに興じていた。

そのとき、日本の短波放送から、「雨の慕情」が流れてきた。

彼女は、以下のように、歌詞の意味を説明した。


これは女の人の恋人に対する気持ちを歌った歌なんです。

その女の人には恋人がいるんですが、
ふたりの仲はあんまりうまくいってないらしいんです。

恋人があまりその女の人をたずねてくれないんです。

それで、雨よもっと降れ、恋人を連れて来てくれと歌っているのです。


もの知りの老人が満足した様子でいった。
「よくわかるよ。人間はどこでもおんなじだね。」

しかし、その後、老人はつぎのように続けた。


雨が降れば、米のできはよくなる。

米がよくできれば、女側の親族は
その恋人の親族を迎えられるものなあ。

恋人の親族だって米があれば、女側の親族に贈るための
象牙や金製品や家畜を集めるための宴会が開けるもの。

手始めの贈りものがすめば、まだ同居できなくたって、
やがて恋人が足しげく来てくれることになる。


彼女は、村人の「誤解」を解こうとした。

日本では贈りものをしないで結婚できることや、雨は女の涙みたいだとか、
雨の激しさが女の気持の激しさと同じだとか・・・

しかし、この歌の解釈をめぐる彼女と村人のやりとりはうやむやに終わった。

エンデ人たちは、結婚する場合、男側の親族は女側の親族に
象牙や金製品などを送らなければならないし、女側も逆に男側に大量の米と布を送らなければならない。

品物を用意したり、贈ったりするたびに、宴会が催され、大量の米が消費される。

そのために、
雨が降ることを望む歌であると解釈されたのである。

出典:波平恵美子編『文化人類学〔カレッジ版〕』医学書院、pp.15-8



これらの事例は、異文化を理解することが容易ではないことを示している。


これらの場合、解釈する主体は、ティヴ人やエンデ人であるが、

彼らに限らず、わたしたちも、自文化の価値観に基づいて
異文化を理解することがよくあることを示しているのではないだろうか。



自文化のものの見方や価値観に基づいて異文化を判断すること

自文化中心主義
ethno-centrism

という。


私たちの当たり前(常識)を持ちこんで、異文化(他者)を理解すること。


*あらゆる行動は、文化的なものであり、行動の違いを、私たちとの文化・文明の違いに還元しないようにすべきだろう。

異文化(他者)の見方・考え方に寄り添って、内在的な観点から理解を試みるならば、
「彼ら」のやり方が「私たち」の前に開かれてくる。


別の言い方をすれば、私たちとは、大きく異なるかたちで、
物事を捉える人たちがいるということ。

北米先住民オジブワ

オジブワは、人と人との間だけではなく、人と動物との社会関係の網の目にも捕らえられている。

オジブワ社会を理解するための唯一の方法は、その点を考慮に入れることである。

これが意味するのは、狩猟は、
人と人の間だけでなく、人と動物との間にもある一連の社会関係として理解・分析されなければならないということである。

ポール・ナダスディ

奥野克巳・山口未花子・近藤祉秋共編『人と動物の人類学』所収




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