【趣旨】
「グローバリゼーションのグローブ(Globe=世界)を実現する惑星(planet)、地球(earth)、土壌(soil)、領土=テリトリー(territory)など、どこにも存在しない。これまではすべての国がそのグローブを目指してきた。だが、もはや誰にとっても、確実な「安住の地」はないのである。」(ブルーノ・ラトゥール『地球に降り立つ』川村久美子訳)
今日、COVID-19の世界的なパンデミックは、私たちに「マイナスのグローバリゼーション」がもたらす諸問題をあらためて認識させることとなりました。人獣共通感染症の発生と流行は、ヒト、モノ、カネが際限なく移動を続け、世界を隈なく資源化し続けてきた近代以降の人類史を抜きにして語ることはできず、またそれは、人類による地球の支配が拡大した結果、人類の生存基盤自体が揺るがされる状況が生じていることを表す地質学的新年代として、2000年代以降に関心を集めている「人新世」という言葉にも、端的に表されているように思います。
一方で、こうした「マイナスのグローバリゼーション」に対する反動として、今日、世界では「マイナスのローカル」へと向かう動きも、顕著となっています。たとえば、各国で吹き荒れている排外主義や差別主義の風波、またトランプ政権下の米国をはじめとする一国孤立主義の台頭などがその例でしょう。今日のコロナ禍においては、ますますそうした動きが強まりつつあり、日本においてもこの混乱に乗じて、特定の職業、民族、セクシュアリティを排除、差別する動きが目立ってきています。
とはいえ、こうした一連の現象がなぜ起こっているのかと言えば、それらを駆動しているものは、他でもない「マイナスのグローバリゼーション」によって「安住の地」を剥奪された市民の自衛意識です。そして、こうした自衛意識そのもの、生の安寧、文化の保護を求める衝動そのものは、語弊を恐れずに言えば、「当然」のものであるとも、「健全」なものであるとも言えます。しかし、たとえそうであったとしても、そうした自衛意識がもたらす帰結としての排外主義や差別主義に同意することは、歴史上の様々な惨劇を知る立場として、やはりできません。
ここに”ジレンマ”があります。本シリーズではこれまでもグローバル(普遍性)に接続(接触)することで生じる暴力と、ローカル(特殊性)に分離(隔離)することで生じる暴力という、二つの暴力を極としたシーソーゲームに動揺する「生」が、様々な角度から語られてきました。そうした語りの中で見えてきたことは、私たちはすでに過剰に繋がりすぎていて、かつ、すでに過剰に分断されすぎているという逆説です。そこで、シリーズ最終回となる今回も、再びこの問題に迫りたいと思います。つまり、「グローバルか、ローカルか」という二項対立を乗り越え、あるいは調停する、かつその二つの極の「あいだ」における、バランス調整にとどまるのではない第三の道を、COVID-19と共に発見すること――それが今回のテーマです。
新型コロナウイルスの流行を現代の「コロンブス的交換」(A・クロスビー)であるとし、ユヴァル・ノア・ハラリが説くようなコロナ禍における「国際的な団結」や「科学への信頼回復」を「浅薄だ」と批判、その上で自然をコントロール可能のものとして制圧しようとする科学を人新世の自然観を問い直す観点から批判していくこと、かつ21世紀のコロンブスを、新たなる制圧や封鎖のためではなく、探り当てていくことの必要性を論じる科学史家の塚原東吾。
今回のパンデミックをニール・ブレナーのプラネタリー・アーバニゼーション(現代の都市形成過程が従来のように都市と農村の二分法で捉えられるものではなく、都市という領域区分や国境さえも超えて地球にまで影響を及ぼす現象となっているとする考え)という概念を軸に考察し、さらに、物理的なインフラのみならず、制度的なインフラの持つエージェンシーに着目することによって、COVID-19の問題を、過去との単なる断絶としてではなく、過去からの連続するものとのディアレクティックな関係の中で捉える必要性を論じる思想史を専門とする平田周。
お二人の対話から、グローバルとローカルの来たるべき「あいだ」、人新世を超えて、マルチスピーシーズと共に「共棲」圏をつくりだしていくための知恵を、学びたいと思います。
【プログラム】
対談:塚原東吾(神戸大学大学院)×平田周(南山大学)
司会進行:辻陽介(HAGAZINE編集人)
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