◆ナンガ・カリス村から、積み荷を運ぶ船に便乗するか、船をチャーターしてカリス川を遡ると、鬱蒼と茂る熱帯雨林を横目で見ながら、次第にカリス人の住む地域に入っていく。下流域から順に、ナンガ・トゥブック(Nanga
Tubuk)村、ナンガ・ダナウ(Nanga Danau)村、ケンスライ(Kensuray)村という三つの村が現われる。3.3馬力の船外機つきの船の航行で、ナンガ・カリスからナンガ・ダナウ村までは約三時間、ケンスライ村までは半日の行程である。ナンガ・トゥブック村とケンスライ村は、カリス人と、カリスと同じダヤク諸族に属するスルク(Suruk)人からなる村である。スルク人は、カリス川の西方に流れるスルク川流域に住むスルク人の傍系で、人口増加とともに東方にその領地を拡大してきたとされる。また、ナンガ・トゥブック村には、1970年代後半インドネシア政府が、人口稠密なジャワ島からの人口を受け入れるトランスミグラシ政策の一部として、灌漑施設が建設され、ジャワ人十数家族が住んでいる。他方、ナンガ・ダナウ村の人口900人のうち、1994ー5年現在、二家族を除く全人口がカリス人である。さらに、カリス人は、マンダイ川の支流のペニウン(Peniung)川とその支流域にも、数家族が住んでいる。カリス川およびペニウン川周辺に居住するカリス人の総人口は、二千人弱である。行政単位としての村は、それぞれ幾つかの集落(dusun)からなる。村には村長(Kepala
Desa)が、集落には集落長(Kepala Dusun)が、現在、村長、集落長は住民投票、または、住民の話し合いによって選出され、郡長(camat)によって任命される。さらに、インドネシア政府は、様々な法的問題の処理にあたり、オランダ統治時代の制度としての慣習法(adat)の管理者としてのトゥムングン(temmengung)を任命している。カリス川流域には一人のトゥムングンがいる。また、トゥムングンの役職の下には、集落ごとにクパラ・アダット(kepala adat)がいて、人々の日常的な揉めごとの調停にあたる。
◆西洋の文献で、カリスの民族名称が登場する最初のものは、1924年のオランダの民族学者ボウマン(Bouman)のものである。そこには、蘭領スミタウ(Semitau)県とカプアス上流県(Boven Kapuas)の住民の民族別人口が記されている。それによると、カリス・ダヤク(Kalis dajaks)は、カプアス上流県に住む人口699人の民族集団である。一方で、サラワクのイバン人は、カプアス河上流のウンバロー(Embaloh)やタマン(Taman)とともに、カリスを、ウンバローの人々を指す時の語彙である「マロ(Malo)」「マラウ(Malau)」「マロー(Maloh)」という民族名称のもとに、ひとまとめにして呼んでいた。カリスは、ウンバローやタマンの人々と同じように、前世紀から今世紀半ばにかけて、イバンのロングハウスを転々としながら、銀細工工芸品などを作る生業活動を行った。1846年に、ケッペル(Keppel)はマロの人々からマロの語彙を収集して、マロ語のリストを作製している。1863年に、スペンサー・セイント・ジョン(Spencer St. John)は、カプアス河の水源近くに住むマラウが、イバン人の居住域を安全に行き来し、金や銅細工の工芸品を供給したことを聞き書きしている。その後、カリス、ウンバロー、タマンは、民族学的研究において、しばしばマローという民族名称とともに登場するようになる。マローに関する最初の特定研究は、1962年当時のサラワク博物館館長ハリソン(Harrison)が、クチンに住む友人を訪ねにやってきた三人のマローをインフォーマントとして、マローの文化、社会、神話について聞き取って記述し、分析を加えたものである。1970年代初めにウンバロー地域で人類学的な調査研究を行った、イギリス・ハル大学の東南アジア研究センターのは、キング(King) である。
◆私がカリス人居住地に入村して、一週間ほどの間は、村の様子を見ながら、私が学校から借りた寄宿舎を生活のための場として整えることに力を入れた。その時に隣にある寄宿舎を引退した後も借りて住んでいる、元のナンガ・ダナウ村の中学校校長であるサバン(Sabang)氏が、細々としたことを教えてくれたり、いろいろな世話をしてくれた。一週間して、私の生活の場が整うのが一段落すると、サバンは、私が間借りした家を祓い清め、彼が私の父親(ama)となる儀礼を行なうように、私に進言した。私は、彼の意向を受け入れ、村人から鶏を分けてもらって、サバンとともに儀礼を行った。それを、カリスの人々は「お互いを結びつける(si-jarat-an)」儀礼と呼んだ。それは、親族のつながりがないところに擬制的に親族関係を確立して、社会関係を円滑にするように働く「擬制的親族制度」を確立するためになされる儀礼であった。カリス人は、そのような実践を制度として持っているとは思っていないし、ましてや、制度として呼ぶこともないのであるが、カリスの人々は、夢見(mui)や日頃の親交関係を通じて、親族のつながりのない者同士の間に、比較的容易に、擬制の親族関係をつくり上げることがある。カリス人居住域に長らく留まることになった外来者に対して、「擬制親族制度」は、互いの交流をはかるために有効に働く。そして、このような「制度」が、二年間をカリスの村で過ごしにやって来た外来の研究者にも適用されたことは想像に難くないはずである。私と入村後一週間してできた私の(擬制の)父親との関係を軸として、私は、カリスの人々に、おじ(kamo')とか、息子(anak)、時には孫(ampu)などとという呼称で呼びかけられるようになった。さらに、ある男性の見た、私を真っ赤な車で、うねうねとした山道をプトゥシバウまで送り届けるという夢は、サバンによって、その男性が私の困難な調査活動をうまく誘導するようになることを意味していると解釈された。夢を見た男性は「お互いを結びつける」儀礼後、私の(擬制の)兄となって、機会ある毎に食事に招いたり、私の調査行に付き合ってくれたりした。私も、また、彼の家族を食事に招いたり、村外に出た時には、彼の代わりに用事を済ませたりした。私の調査期間中、二人が私の(擬制の)父親に、一人が私の(擬制の)兄になった。私の(擬制の)母親になることを申し出た女性とは、最終的に「お互いを結びつける」儀礼をする機会がなかった。
◆ここで、私自身が、カリスの「(擬制)親族制度」に巻き込まれてゆく過程で、徐々に明らかになって行ったカリスの「親族組織」を簡単に整理しておきたい。カリスの親族組織は双系的(bilateral)であると言うことができる。カリス社会のメンバーは、父親(ama)と母親(andu)を通じて辿ることができる親族(sinsama)に、理論的には、同等の社会関係の比重を置いている。彼/彼女は、兄姉を kaka'、弟妹を ari'と呼ぶ。兄弟姉妹の性別を強調する場合は、それぞれの後に、男性の場合は男(burane)、女性の場合は女(buine)を付ける。また、父親と母親の兄弟姉妹を、全て、おじ、おば(kino')と呼ぶ。第一いとこ(sapu diri)、第二いとこ(sapu ini')を、長幼男女の別によって、兄か姉、弟か妹と呼ぶ。また、父母のどちらの祖父母も、お爺さん(apu nane)、お婆さん(apu dadu)である。一般に、祖父母より上の世代は全て apu toa'(字義どおりには、「昔の祖父母」)である。カリス社会では、兄弟姉妹(kaka' ari')のうち一人が、結婚して配偶者を連れてきて、両親とともに生活するようになるのが普通である。他の兄弟姉妹は、それぞれの配偶者の家に入るか、新しく家を建てて独立して生計をたてることになる。彼らが、義理の兄弟姉妹(epar)を呼ぶ時には、通常、長幼によって、兄弟姉妹の語彙を使う。義理の父母(matoa)を呼びかける際には、通常、父、母の語を使う。ところで、カリスの人々は、かつて、カリス社会には、貴族(samagat)、平民(banua)、奴隷(ulun)からなる三つの社会階層が存在したと言う。奴隷は、民族間戦争の捕虜およびその子孫であった。社会階層は、現在では、カリス社会においては、ほとんど機能していない。日常生活においてはもちろん、男性の側からの結婚の申し込み(paseset)の際、婚資(pakain)を取り決める場合にも、かつての出自について言及することは、極力忌避されるようである。同じく、貴族、平民、奴隷から成る社会階層を持つウンバロー社会やタマン社会における研究資料と比較すると、カリス社会では相対的に社会階層の重要性は低い。
◆畑では、陸稲の他にとうもろこし、南京豆、インゲン豆、キュウリ、ニガウリ、トウガン、ナス、菜っ葉類などを栽培し、主に自家用に消費する。森の中に自生するドゥリアン、ランブータン、バナナなどは換金用として集められて、プトゥシバウなどのマーケットに売られることがある。さらに、1980年代後半から、政府の指導で導入されたゴム栽培は、人々の貴重な現金収入源となりつつある。カリス人は、飼育動物として、鶏(ayam)、豚(bawi)、牛(sapi)を飼う。鶏は、上述した農耕儀礼以外にも、「新生児を家族と見なす儀礼(siangkat
sinsama)」「葬送儀礼(kamatean)」などの人生儀礼、家屋建設予定地に「大黒柱を建てる儀礼(pakadeng
pakayu)」など、あらゆる儀礼において使われる。そのため、カリス川流域では、鶏の絶対数がつねに不足ぎみである。豚、特に飼い豚(bawin
sao)は、その中の特定の儀礼において使われる。カリス川流域には、イノシシ(bawi
toan)が豊富におり、大きな籐籠の罠に時々掛かる。カリス人は、イノシシ肉は、飼い豚よりも美味であると言う。飼育動物は、食卓のおかずだけのために屠られるようなことはない。一方、投資と換金を目的として牛を飼っている人々がいる。一般に、牛を飼うことは経済的な豊かさを示していると考えられている。また、カリス川では、亀、小魚、川海老や、カタツムリなどの軟体小動物が獲れる。それらは焼いたり、煮たりして、食卓に饗される。さらに、カリス人は蛇、鹿、猿などの肉を好んで食べる。カリス社会において、農民一家の平均的な月収は10万〜15万ルピア(五千円〜七千五百円、1995年時点)である。家屋建築やその他の雑事手伝いの手間賃、畑で栽培した野菜類の販売、森に自生する果物の収集と販売、捕まえたイノシシ肉の販売、収集業者へのゴム販売などが、主な現金収入の道である。
◆また、カリスの人々の現金収入にとって重要な機会の一つとして「マナモエ(manamoe)」と呼ばれる活動がある。マナモエとは、青年期から壮年期の男性が、一定期間母村を離れ、何らかの経済的な活動に従事することである。前世紀から1960年代にかけて、カリスは、マレーシアとの国境を越えて、サラワクに出かけて、イバン人のロングハウスを転々としながら、儀礼用の銀細工工芸品などをつくって、生活の資を稼いで帰村した。現在、カリス人居住地に、銀細工職人としてサラワクを渡り歩いた経験をもつ人物は、すでに死に絶えている。マナモエに行って二度と母村に帰らなかった人々もかなりいたようで、彼らの多くは、現地のイバンの女性と結婚し、イバンの言語・文化を身につけ、イバンのロングハウスに留まった。1992年現在では、サラワク・バラム(Baram)河流域のマルディ(Marudi)近郊に、カリスの子孫が住むイバンのロングハウスがある。1980年代に、マンダイ郡を含むカリマンタン最深部の森林で、特有の香りを放つ腐りかけた木質部であるガル(garu)が発見された。それは、ある種類の樹木の樹脂やその他の成分が、長期の埋没の間に、土質、温度・湿度などの条件により化学変化し、香木となったものである。この発見を契機として、あちこちで、しばしば隊が組織され、収集活動が行なわれるようになった。それには、小学校高学年から40歳代後半までの男性が参加し、彼らにとって重要な現金収入の機会となったようである。カリス社会でも、自らリーダーとなり、香木収集隊を組織した人たちがいる。その結果、カリス川流域でも、何人かの「香木成り金」が出現している。1990年代に入るとマンダイ郡地域の香木は収集し尽くされ、1990年代半ばには、カリス川流域で編成された隊は、カプアス河の水源近くの森に遠征に出掛けるようになった。
◆ナンガ・ダナウ村とケンスライ村は、1993年(スハルト時代)にインドネシア政府によって発令されたIDT(イー・デー・テー)と一般に略称される「取り残された村に対する大統領令(Inpres
Desa Tertinggal)」において「取り残された村(Desa
Tertinggal)」に分類され、プログラムの対象村落に指定されている。IDTのプログラムは、従来注力されてこなかった辺境および後進地域の開発を推進するためのプロジェクトである。隣接する幾つかの「取り残された村」の計画を側面的に支援・指導するために、ポンティアナックおよびジャワ各地で特別の教育・訓練を受けたプンダンピン(pendamping)と呼ばれる指導員が派遣される。各村は、プンダンピンの協力のもと、計画を立案し、それを実行している。具体的には、1994年度から、初年度、二年度に各々2千万ルピア、三年度に3千万ルピアの合計7千万ルピアが一行政村に対して配分され、それぞれの村で決めたプロジェクトの計画に従って取り組みがなされる。平均的なカリス人農民にとって、政府の提供する資金と計画に沿って独自の計画を立案し、推進することは、これまでになかった経験である。