I-7.学び

筆者の研究テーマとして、「学び」と学問の方法論についてがある。以下にその輪郭を述べておきたい。

「学び」と学問の方法論

はっきりした研究テーマとしてではないが、筆者はこれまで折に触れて「学び(Learning)」とは何かについて書いてきた。たとえば外国語の学習は一つの「学び」である。この「学び」には未知の世界に飛び込むという困難さが付き纏うが、それを克服して新しい世界を知った時、自らの人間性が広がっているのを知る。外国語学習の究極は異文化体験である。筆者はそれを二十代のアメリカ留学体験によって知った。この体験は恐るべきものであった。それによって自分自身が作り変えられたように思う。異文化体験は個人の価値観、世界観、また性格でさえも変えてしまう。まさに意識の変換状態(Altered States of Consciousness)の経験と言ってもよい。三年間のアメリカ生活を終えて日本に戻ってきた時、筆者は普通の日本人ではなかった。その時体験した現実の喪失(Loss of reality)は異文化体験よりも辛いものであった。

異文化体験は特殊で極端な「学び」であるが、「学び」はまたより緩やかな形で、社会生活の至る所に存在する。同様の学習は、日常の活動、人生経験のあらゆるところに存在する。仕事や勉強は学習の連続である。また趣味やスポーツ、あるいは友情や恋愛においてでさえ学習は存在する。言葉の本来的な意味で人間として生きるとは継続して学ぶということである。

「学び」とは何か。それはいかにして起き、その結果何をもたらすのか。たとえば大学に行くとは何を意味するのか。かつて多くの若者は理由など考えずに大学に行った。漠然とした理由の中に真の「学び」が隠されていたのである。しかし現代はせちがらい時代である。若者は資格を得るために、就職のために、実際的な目的で大学に来るという。だが本当にそうなのか。ただのポーズに過ぎないのではないのか。何故なら人間はロボットではないからだ。その奥にはより深い人間の欲求があるのではないのか。そして実は動機などどうでもよいのである。重要なのは、在学中の4年間に、その後の人生を決める大きな精神的事件が起きるということである。年齢的な意味でも、発達心理学から言っても。その中身は人によって異なるが。SF作家アーサー・C・クラークに『幼年期の終わり』という小説があるが、この文章を書いていて何故かその記憶がよみがえった。若者の特権は自分の人生が白紙であるということである。そこに最初の一筆を書き込むということである。

「学び」とは前進するということ、変化し続けるということである。

ところで「学び」とは個人的体験だけで終わるのではない。「学び」の本質は学問研究の中にもあるのである。何かを研究するということは何かを学ぶということである。文化を研究するということは文化を学ぶということである。筆者の専門は宗教人類学であるが、その研究テーマは様々な宗教的伝統である。いかにしてこれらの伝統を研究できるのか。いかにしてその内容を知って理解し、その本質を解明できるのか。対象とする伝統を「学ぶ」ことによってである。ではいかにして「学ぶ」ことができるのか。その伝統を体現している人々とその社会を知り、様々な儀式や行事に参加することによってである。また個々の人々と「さしで」話すことによってである。これらの行為はフィールドワークと呼ばれるが、人類学特有の方法論である。フィールドワークの目的は直接体験によって異文化を知ることにある。したがってその本質は「学び」そのものである。

立教大学正門横の桜

参照

このテーマに関するエッセー・論文をいくつか挙げておこう。