Ⅱ-2.時間思想

時間はマヤ民族文化のアルファであり、オメガである。古代マヤ人は時間を世界と生命の根源であると考えた。20ナワールを根幹とするマヤ時間思想は歴史上唯一無二の思想である。だがマヤ人だけではなく、時間は人間にとって不可思議な現象であり、世界中の哲学者、思想家、科学者の頭を悩ませてきた。キリスト教者、聖アウグスティヌスは時間を深く考察したことで知られる。彼の表現を借りれば、「私たちは時間が何であるか、よく知っている。だからそんなことは問われるまでもない。しかし、人から時間とは何か? と問われたら私たちはそれに答えることはできない」。まさしく時間とはそのような存在であり、理性で理解しようとすれば捉えようのない実体である。時間とは何か。この疑問に正面から答えるのは難しい。だがそれでもその理解を深めることはできる。例えば我々が時間と呼ぶものの考え方は実に多様である。時間概念は文化によってもまた時代によっても異なる。

はじめに直線的時間が存在する。この時間概念はキリスト教が造り上げた西欧世界の発展からから誕生した。その根底にあるのは進歩という思想である。18世紀ドイツの哲学者カントは時間が先験的なものであり、他の事象とは無関係に存在すると考えた。つまり時間とは人間の認識の外に存在するものであり、人間はそれを変化の尺度としてしか認識できないのだ。現代世界を支配するのは西洋起源の科学的世界観であるが、それによれば時間とは一方向に直線的に流れるものである。これに関しては、20世紀初めにアインシュタインの相対性理論により、時間と空間が不可分であり、速度や重力によって時間の経過が変化することが明らかになった。しかし時間が直線的に流れるという理解においては大きな変更はない。

だが同時にまた、時間とは円環的な流れでもある。昼と夜の反復、季節の循環はその最もわかりやすい例である。古代インド人は円環としての時間、万物の生成流転の表象としての時間にこだわった。ヒンドゥー教では世界は創造神(ブラフマン)、維持神(ヴィシュヌ)、そして破壊神(シヴァ)によって無限に創り変えられる。インド的時間概念の到達点は輪廻転生の思想である。円環としての時間思想を最も深く考察したのは古代マヤ人である。彼らは世界の森羅万象の中に無数の周期(サイクル)を発見した。またその謎を解明すべく、数多くのカレンダーを製作した。そして時間を、エネルギーを持った実体であると考えた。

円環としての時間は現代科学において詳細に解明されつつある。例えば人間の意識であるが、実験心理学によれば、人間の認知作用は生物学的、脳生理学的電気パルスに基いているという。そして意識とは数秒ごとに行われる統合作用であるという。

世界にはまた直線的でも円環的でもない時間概念が存在する。例えばアメリカ・インディアンの一部族であるホビ族である。ホピ語には通常の意味での動詞の時制が存在しない。したがって単純に考えれば、ホピ文化には過去・現在・未来という区別がないことになる。言い換えれば時間は存在しないということになる。事実はそう簡単ではないが、この言語学的特性は有名なサピア・ウオーフ仮説を生み出すことになった。

では日本的時間概念はどうか。大きな意味で、おそらくは「直線的な流れ」としての時間である。だがこの「流れ」は理性的尺度としての西欧的時間概念とも異なり、極めて情緒的なものである。『平家物語』冒頭にある「諸行無常」的な、あるいは『方丈記』冒頭の「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず」という「生ある者のはかなさ」が投影された時間概念である。

時間とは何か。時間と世界、生命、そして人間の関係とはいかなるものか。世界の諸文化に見られる時間概念の多様さは何を意味するのか。これらのことを解明したい。

参照

このテーマに関しては以下の論文を参照されたい。