「これは世直し。」阿部治センター長の言葉と共に、この日、立教大学ESD研究センター設立記念講演会は幕を開けた。講演者には、日本の近代化の原動力として工学界を牽引し続ける吉川弘之氏、そしてレイチェル・カーソンによる著作の翻訳を数多く手掛け、彼女の哲学が持つ今日的重要性を唱えるエッセイスト上遠恵子氏の両氏という、超領域的研究に立脚する「教育の再方向付け」を理念に掲げるESD研究センターをまさに体現する講演会となった。
【吉川弘之氏「21世紀の「知の世界」を切り拓くESD」】
「21世紀の「知の世界」を切り拓くESD」と題された講演の中で、吉川氏は蛸壺化によって現代の諸科学が抱え込むこととなった問題点を、その歯切れの良い語りと共に鋭く指摘した。
今日の社会は、単に我々自身が創り上げたものではなく、人類の長い歴史の中で「未知なる他者」である環境との相互行為を通して着実に蓄積してきた知識の上に成立しているのである。例えば、地震との戦いは耐震構造についての知識を発達させ構造力学を準備し、病原菌との戦いによって、人類は予防・消毒といった対処法を学び、後に微生物学へと発展する知識を獲得していった。しかし同時に、そうした知識が蓄積されていく過程で、各々の分野が学問体系として専門化し、蛸壺化が進行した近代諸科学の布置は、結果として様々な「齟齬」を内包する構造を形成した。吉川氏はそう指摘する。
携帯電話と自動車は、その一例である。それぞれのモノ自体は、各々の専門分野が積み上げてきた知識の結晶であるにもかかわらず、両方が同時に使用されると、交通事故を誘発し、人命を脅かす凶器へと、たちまち変貌を遂げる。その結果、それを禁ずる法律によって社会的規制を加える必要性が生じてしまう。こうした「矛盾」は、近代以降の諸科学が、「知的探求」、「真理の追究」という進歩史観的命題に向かって、ひたすら己の分野を開拓し続けた結果、研究の末に得られる知識やモノを実際に使用する使用者の視点、つまり社会というより大きなコンテクストを、研究の射程から排除することによってもたらされた負の遺産であり、その最たるものこそ環境問題なのである。従って、各々の学問領域は、進歩史観的真理の追究に耽るのではなく、実際に生きられている今日の社会状況へとスコープを拡大し、「持続可能な社会」の模索という社会的課題を全ての領域の研究主眼として据える必要がある。そして、個別の専門性を損なうことなく、学問領域間の繋がりを促進させることによって、矛盾の(再)生産ではなく、矛盾を溶かしていく方向へ、科学の在り方そのものを再編成していく必要があると、吉川氏は冷静に、しかし情熱溢れる眼差しで参加者に語りかけた。
【上遠恵子氏「持続可能な社会に向けたカーソンの遺言」】
引き続いて「持続可能な社会に向けたカーソンの遺言」と題して行われた講演の中で上遠氏は、科学者であったレイチェル・カーソン自身が、自ら科学的裏付けに立脚することによって、殺虫剤が噴霧する化学物質の有害性を証明し、近代以降の科学的営為が「人間の終焉」の前奏曲となりかねないという警鐘を鳴らしたことに意義を見出しつつ、人間と自然環境との関係性へと目を開いたカーソンの哲学が持つ先験性と今日的重要性を、一つ一つ丁寧に自身の言葉に置き換えながら聴衆に訴えた。
地球上に生息している生物は、何億年という計り知れないほどの時間の中で多様化を進行させ、周囲の環境との調整と均衡を取ってきた。しかしながら、近代社会が躍起になって推進する「開発」は、他の生物種に順応のための十分な時間を与えず、生態系システムに急激な変化をもたらした。更に、「効率性」、「合理性」の信奉によって、ありとあらゆる生物が、開発を阻む害虫という名の下に、殺虫剤によって無差別に殺されていく。一見するとそれは、開拓の向こうにある「ユートピア」の実現に向けた歴史的プロセスとして解釈することが出来るかもしれない。しかし、日々大量に噴霧される殺虫剤の化学物質は、知らず知らずのうちに水質汚染を進行させ、皮肉なことに人間の生命を脅かす環境を作り出してしまうことについて、愚かにも人間は無知である。
「愚かなのは人間なのです。」上遠氏によって語られるカーソンの遺言は、近代という深い眠りの中にある満員の聴衆を覚醒させる。そして、人間社会が推し進める開発に対して自省的態度を育み、人間中心主義的視点からではなく、環境という、よりマクロな視座から人間の行為を捉え直すことこそが、持続可能な社会の構築の基盤であると強調した。
【ESDの視座と可能性】
両氏の哲学に通底するのは、「社会」、すなわち「環境」へと研究スコープを拡大することの重要性であると言えよう。それは同時に、全ての相互行為は社会的、そして歴史的なものであり、そうであるならば、社会、歴史というコンテクストを捨象し、自己再帰的視座を欠く研究営為は、結局「矛盾」を再生産する負の弁証法に陥ってしまうということであろう。 こうした両氏の主張は、「大きな正義」を振りかざすナイーヴな啓蒙活動に終始するのではなくして、むしろ「小さな道徳」、すなわち自らが置かれている社会、自らの足下へと目を開くことから始めようとする決意表明であると言えるであろうし、それはすべからく、立教大学ESD研究センターが掲げる"教育の再方向付け"という挑戦が実りあるものとなり得るかどうかの鍵であることは言うまでもない。この日、熱弁を振るった両氏の姿に、持続可能な明日の構築という、近代が近代を超えていく「世直し」請負人としての使命感を垣間見ることができたのは、私だけではなかったはずだ。 |