「お金で世界を変える30の方法」という本の出版記念として行われた今回のワークショップは、様々なNGO、大学関係者の発表を聞き、それを基に参加者同士が「自分たちが出来ること」について考える場として開催された。
<第1部:おカネの問題点>
第1部は、「お金の問題点」と題して、我々が日々の生活、<ローカル>な場において使用するお金が、<グローバル>な経済を通じて、どのような影響・帰結をもたらし得るのかについての発表があった。
【戦争とカネ】
世界の総GDP5200兆円のうち、軍事に費やされる金額が120兆円を占めていること、更に、日本の総GDP600兆円と仮定すれば、例えば日本で年間500万円の収入で暮らす世帯は、年間10万円を軍事費に費やしている計算になること。また、普段、我々が大手金融機関に預けているお金が、クラスター爆弾などを作っている軍事産業を間接的に支援している実態などについての報告がなされた。
しかし、そうした現実問題を打開しようとする取り組みも紹介された。例えば、イギリスにおけるコーポラティヴ銀行は、基本的人権の侵害に関わっている企業や兵役産業、あるいは圧政的政府への兵器の供給に関与している企業などには融資をしない取り決めを行っており、「NOと言うことによるビジネス」として、ソーシャル・ファイナンスが注目を浴びていること。また、日本においても、兵役産業などへの融資を拒否する人々の割合が上がっているというデータもあり、そのような一人一人の「草の根」の活動により、オルターナティヴが可能であること、すなわちローカルなネットワークによる、グローバルな変革の実現可能性が強調された。
【お金と貧困】
先進諸国へ輸出されるチョコレートの製造に、アフリカ諸国の児童が奴隷状態で働いていること、また、彼らが実際のチョコレートを見たこともなく、船で強制移動させられている実態などについての報告がなされた。さらに、多くの人が援助のために無償で提供されていると考えている日本のODAの55%は「金貸し(円借款)」であり、そうした日本のODAを受けた国々は、借金(円)を返済するために、作物を輸出して円を稼ぐしかなく、そのために必要となる資金を借り入れることによって、雪だるま式に借金が増えてしまう現状についての報告もなされた。たとえ、借金返済の免除を行ったとしても、その後「ハゲタカファンド」などに食われてしまうケースもあるという。こうした観点から軍事費を捉え直し、仮に、年間世界で使用される軍事費を、全ての途上国が抱えている借金返済に回すと、1年分でおつりが来る計算になるという報告もあった。
<第2部:おカネの流れを変えるために出来ること>
第2部では、第1部で概観したグローバルなお金の流れを変えるために、我々が日々の生活で実践できる事について、以下の観点から報告がなされた。
【ローカルマーケット】
農協は、大農家にとっては都合がよいが、小さい農家にはそれほど助けにならないことから、収穫された作物を直接販売することの出来る「朝市」が持つ交換経済のしくみが持つ重要性が見直されている。また、朝市などの見直しによって、地産地消、地域通貨などの有効性にもスポットライトが当たっている。
【NPOバンク】
グローバル経済・金融に対する疑問から、神奈川県において市民がお金を出し合い融通する信用組合を設立。これによって、担保がなく、思い通りにお金を借りることの出来ない日々働いている主婦たちのニーズを満たすことが可能になった。また、市民が自らお金の運用に携わることから、これまでお金を銀行に預けっぱなしにしてきた事に対して反省する切掛けとなっている。
【カネに頼らずクラス】
釘や接着剤を一切使わない家づくりが進められている。そこでは、建築のための材料の加工(例:木材を煙でいぶす)は、全て山側で加工している。それらの材料を東京に運び、それを組み立て建築するというシステムを採用しているため、山側に住んでいる職人も、東京に出稼ぎに行かなくても、お金を稼ぐことが出来る。また、そうした住宅に、木材の捨てる部分を燃料として使用するペレットストーブを採用することによって、光熱費も少なく、長持ちする家を造ることが出来る。
<考察>
以上、本ワークショップでは、グローバルに展開する経済活動を、ローカルな場における日々の実践によって、おカネをめぐる様々な「問題」に対する解決案、現状を変革することの出来る可能性について議論された。しかし一方で、本ワークショップで提示された、そうした「解決案」そのものが、先進国という特定の文化的文脈から派生した視点に過ぎず、むしろ批判対象として位置付けている「グローバル経済」、あるいは加速度的に進行する資本主義をまさに助長する「問題」そのものである可能性があることにも我々は目を向けなければならないであろう。自らが行っている活動・行為そのものを自省的、批判的視点から捉えることこそが、今まさに問われるべき「問題」なのかもしれない。 |