立教大学 ESD研究センター
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イベントレポート

【2008/6/5(木) 第2回ESD研究会 持続可能な地域づくりとファシリテーターの役割

上條直美(ESDRC)
日時: 2008年6月5日(木)18:30~20:40
場所: 立教大学12号館第一会議室
題目:

アイヌ民族との協働のよる取り組みから/北海道におけるESDの進展

講師:

小泉雅弘(さっぽろ自由学校「遊」)

主催:

立教大学ESD研究センター

共催:

(特活)開発教育協会

記録: 山崎瑛莉(立教大学文学研究科)

【はじめに】
 現在は北海道在住ですが、生まれは違い、高校まで東京にいたので道産子ではありません。北海道に移り住み25年以上経ちました。しかし、北海道を意識するようになったのは最近です。
皆さんにとって北海道のイメージというとどんなイメージですか?
参加者より:「道路がまっすぐ」「寒い」「自然が多い」…
 ありがとうございます。道民にとっても大体そうしたイメージだと思います。ただ、長い間北海道にいると、ひとつ引っかかるものがあります。それがアイヌ民族のことなのです。アイヌ民族に関心がある方が道外からくるとびっくりされるのですが、北海道で生まれ育った人でも、アイヌ民族に関してかなり抽象的なイメージしか持っていない場合が多いのです。学生に聞いてみても、自給自足をしているとか、今まで会ったことがない、といった声が普通に聞かれます。こうしたこと自体が、問題の根深さを表しています。

【アイヌ民族による権利回復の動き】
 さっぽろ自由学校「遊」の元・共同代表である花崎皋平(こうへい)さんが、戦後のアイヌ民族の動きをまとめています。
 ひとつのきっかけとして1968年に北海道開拓100年記念式典があり、これを契機にアイヌ民族の異議申し立てが始まりました。アイヌの自発的な運動の活発化です。社会一般でも全共闘の動きなどがあった時代です。それまで、アイヌ民族はほとんど存在を認められていませんでした。70年代はじめに結城庄司氏などが「アイヌ解放同盟」を組織し、人類学の研究者等がアイヌを材料にして研究をしていることに対する抗議を行ったり、「アイヌの語る会」を大規模に組織したりしていました。また、80年代には英字新聞 Japan Timesに掲載されたアイヌ観光の広告における「名高く、毛深いアイヌ」といった表現に対して、これは差別ではないかとして糾弾会が開かれました。この運動には花崎さんも関わっていました。糾弾会というとちょっと怖いイメージがしますが、このときは広告を掲載した交通公社側も真摯に対応しており、会が進むにつれ両者が一緒に考えていくという形をとることができました。「チャランケ」という「話し合い・談判」の意味のアイヌ語があります。チャランケでは必ず相手に逃げ道をひとつ残しておくそうです。この糾弾会でもそうした考え方が活かされていたように思います。
 開発問題では、70年代の伊達における火力発電所建設に対する闘いや、80年代の泊原発建設に対する動きがあり、アイヌの人たちが関わっています。二風谷でのダム建設では裁判となり、ダムは違法であるという画期的な判決がおりました。裁判所が初めてアイヌを先住民族として認めた裁判です。しかし、ダムはすでに完成しているので壊すことはしない、というオチがついていましたが…
 二風谷に住む萱野茂さん(のちのアイヌ初の国会議員)は、アイヌの民具、史料を集めてご自身の手で資料館を作りました。80年代くらいからアイヌ語教室開催や、忘れ去られた儀式の復活という動きが出てきました。「アシチェップ・ノミ」(新しい鮭を迎える儀式)のようなものが各地で復活し、アイヌ民族文化祭が行われるなど文化復興がここ20年くらい進んでいるといえます。
 もともと北海道のアイヌ民族には、旧土人保護法という、その名前だけでも差別的な法律がありました。これに対して新しい法律を作ろうという動きが80年代に北海道ウタリ協会で始まりました。新法の制定が具体化した大きなきっかけは、萱野茂さんが94年に国家議員になったことで、新しい法律を作るということが国会の中でも話されるようになり、97年にいわゆる「アイヌ文化振興法」が成立しました。しかし、内容はもとのアイヌの人たちが求めていたものではなく、先住民族の権利については触れられていません。この法律を、ひとつのステップとして積極的に捉えるのか、むしろこのような法律は無い方がよいのか、ということでアイヌ民族の間でも評価は分かれています。 
 87年には、国連の中にできた先住民作業部会にアイヌ民族が参加しはじめます。昨年、先住民族の権利に関する国連宣言が採択されましたが、この作業部会への参加をきっかけにアイヌ民族の動きも活発化しました。海外の先住民族と触れ合うことで刺激を受けたのです。

【私とアイヌ民族の出会い】

1. ピープルズプラン21世紀

 東京にあるアジア太平洋資料センター(PARC)が提唱した、ピープルズプラン21世紀という取り組みが、1988年から1989年にかけて行われました。日本の中だけで未来を考えていても埒が明かないので、アジアの人々に呼びかけて一緒に21世紀のプランを描こうという壮大な取り組みでした。89年の夏に、様々なテーマの国際会議をほぼ同時に日本の各地で開催しました。この一環で、北海道では世界先住民族会議を開催した際にスタッフとして関わったことが、私が具体的にアイヌ民族のことに関わるきっかけでした。
 会議に先立ち、フィリピンのPETA(フィリピン教育演劇協会)という演劇ワークショップグループが北海道に来ました。一緒に旅をし、アイヌの人を訪ねて話をしたり、交流をしたり、ノツカマップというかつてアイヌ民族が処刑された岬に行ったり、という体験をしました。私はそれまで学生時代、北海道に住んでいながらアイヌ民族についてはほとんど知らなかったのですが、フィリピンの人たちに「なぜ知らないのか」と言われたりして、刺激を受けました。このときアイヌ民族に触れた経験をベースにみんなでストーリーを考えて、劇を作りました。これが、私がワークショップというものを経験した最初の機会です。

2. 自由学校におけるアイヌ民族学習とその課題

 こうしたことを通して、さっぽろ自由学校「遊」を立ち上げました。ピープルズプラン21世紀が終わったときに、先住民族のことだけではなく、環境、女性、ODAなどさまざまに出てきた課題を、地域にどのように根付かせていこうか、ということをみんなで話す中から出てきた活動です。週1回講座を開講することから始め、今はほぼ毎日、講座を開講しています。こうした活動を20年近く続けています。
 アイヌについての講座を継続して開いているところは、北海道でもあまりありません。「遊」にしても専門的にやっているわけではありませんが、学習活動ということに限れば、他に例はありません。講座は、主に社会的課題がテーマで、毎回多様な講師を招いて行なう連続講座が中心です。文化講習としては刺繍などを習うアイヌアート教室は継続開催しています。アイヌのことを学ぶには座学的なことだけは十分ではないので、フィールドワークも実施します。出版事業としては、「遊」でブックレットを8冊ほど出版しており、その多くがアイヌ民族に関わるテーマです。
 こうした多様な学習活動をひとくくりにすることはできませんが、私が感じてきたアイヌ民族学習についての課題を、次のようにまとめてみました。

    1. アイヌ民族の講座をやると人は来る。しかし、決まった人しか来ない。一方で世の中の大半である全く知らない人とのギャップを埋めたい。
    2. 講師の話と質疑応答という講座の形態なので、参加度を高めたいと思うが2時間の講座ではどうしても講師の話が中心にならざるを得ない。
    3. 継続的に実施しているようにみえてもそうなっていない。毎年、来年は何をやろう、と企画を立てて、その都度人を集めている。開催側にとって発展性が感じられない。
    4. 自由学校のスタッフにはアイヌ民族の人がいるわけではないので、企画をしてアイヌ民族の人を講師に呼ぶという形に終始しがち。その場合、なかなか対等な立場で話し合うことは難しく、また、アイヌ民族の人に参加者として参加してもらうことも難しい。

こうした課題を感じる中で、ESDという取り組みへの関わりが出てきました。

【ESDに関わるきっかけ】
 座学学習を参加型にしたいという思いが、開発教育への接近や自らのファシリテーター勉強会実施へとつながりました。ESDという動きを最初に知ったのは、DEAR(開発教育協会)などを通じてですが、ESDについての説明を聞くと、これは「遊」がやってきたことそのものではないかと感じました。国際協力、人権、平和など、さまざまなテーマで講座活動をしているので、包括的に問題を考えるということはESD的だと思いました。しかし、「遊」の活動を振り返ってみると、北海道という地域の課題に意外と向き合えていなかった。さっぽろ自由学校「遊」は札幌の中心部にあります。札幌は東京ほどではないにしても、大きな都市です。一極集中という感じで、あまり地域の課題が見えておらず、北海道の地域が抱えている課題をみていきたいと思いました。そこで、

  1. 北海道内の札幌以外の地域でワークショップやアクションリサーチを実施する。
  2. 北海道で持続可能な開発ということを考えれば、アイヌ民族なしでは語れない。しかも、アイヌ民族の人と一緒にやりたい。

という2つのアプローチを「遊」におけるESDへの取り組みの柱としました。理想的には、この二本柱は重なるべきだと思いますが意外と重ならないのです。たとえば、ワークショップをやって地域の課題を出してもらうと、環境とか福祉、外国人との共生は出てきても、アイヌ民族のことはほとんど出てきません。地域にもよりますが、それほどある種のタブーであったわけです。一方でアイヌ民族をテーマにしてやると関心ある人は集まって来ます。そこにまだ距離があります。

【最近の取り組み】

1. 先住民族エコツアー(知床)

 一般的にはユネスコの世界遺産として登録される際に、その地に住む先住民族の関与というものがなされるようです。ところが、知床が登録される際に、アイヌ民族に対するアプローチがなかったのです。このことに対して、アイヌ民族や研究者が、異議申し立てをしてきました。アイヌ民族の関与を作っていこうという動きの一環として、先住民族エコツーリズム研究会が立ち上がり、モニターツアーなどを始めていました。そこに関わっていた結城幸司さんが「遊」にエコツアーをやらないかと呼びかけ、「遊」でやることになりました。一般的に先住民族と観光というのは深い結びつきがあると同時に、深い問題があります。先住民族というのは長い間、観光で見世物としての客体になってきました。アイヌ民族にしても、多くの人と実際に接触するのが観光地だったりするわけです。そこでは、観光用に踊りを踊ったり、木彫りをしたりと、先住民族に対するステレオタイプなイメージが再生産されています。アイヌ民族の中でも、「観光アイヌ」などと呼ばれて恥ずかしいこととされてきました。しかし一方では、観光に関わっていないアイヌ民族というのは、事実上、アイヌの文化とは全くかけ離れた生活しかできないという状況になっています。唯一、観光地において踊りや木彫りなどの文化が伝承されている。ある意味、積極的な側面もあります。
 しかし、客体にされているということはアイヌ民族の役に立つことではありません。アイヌ自身が主体的に、しかも環境にもよい形で観光に携わるというものがこのエコツアーです。ねらいのひとつに、アイヌの若者の新しい雇用を生み出すということがあります。全国的に若者の雇用が少ない時代、アイヌの若者は特に難しい。仮に仕事があっても、その中でアイヌのアイデンティティを発揮できるものはほとんどありません。知床には現在、アイヌは住んでおらず、このツアーも、札幌からガイドをするアイヌのメンバーと一緒に行ったのですが、今は一人常駐しており常時ツアーができるようになりました。また、アイヌ民族の資源に対する権利、土地に対する権利を復活していこうとしていますが、なかなかできません。ツアーを実施することで権利獲得の入り口にならないかというねらいもあります。知床で始まった動きですが、知床以外でもできると思うし、しっかりしたガイドができれば道内どこででもできるのではないかと思っています。

2. 演劇ワークショップ

 「遊」のアイヌとの協働による取り組みというのは、ほとんどすべてアイヌアートプロジェクトの結城幸司さんたちと行っています。結城さんとの出会いが大きなきっかけで、そういう関係性がないと一緒にはなかなかできません。結城さんは、自分でオリジナルのユーカラ(アイヌに伝わる抒情詩)をつくっていて、その読み聞かせもしていました。これを題材に演劇ができなか、という話になり、PETAの影響もあってワークショップという形で行うことになりました。「演劇」という文化的な要素を取り入れることによって、社会的な課題を自分たちの問題として取り上げやすくなりました。
 もう一つは、差別/被差別の関係性ゆえに率直な意見交換が難しい場合、演劇という形をとることでタブー視されていることも表現していけるのではないかということです。
 ストーリーは、北海道が50年後に独立し、憲法制定会議にいろいろ人が混ざって話し合っているときに、国連で先住民族の権利についての条約が採択されたというニュースが入ってきた、という設定です。アドリブでいろいろ話します。役になりきって真剣に話し合うわけですが、これをやっている中で、最終的に和人の側には先住民族の権利に対して何の準備もないのだなということが明らかになりました。

3. DEARと共催、2泊3日のワークショップ

 これは、マレーシアのジョハンさんというコミュニティ・オーガナイザーとの出会いを通じて実現しました。インドネシアで行われた会議で、DEARや結城さん、ジョハンさんらが出会い、それをきっかけにジョハンさんを日本に招くことになりました。アイヌと和人がじっくり話す場というのがこれまであまりなかったということと、アイヌの間でもこれまであまり水平的な話し合いの場というのがなかったということがこのワークショップをやろうと考えたきっかけです。
 問題は、アイヌの人たちの参加を得ることでした。内容についての説明もしづらく、3日間という長い日数を割いて話し合いに参加してくる人をみつけるのは難しかったのですが、それでも蓋を開けてみると、予想外に40人くらいの参加者が集まりました。その半数くらいがアイヌの人で、20代の若い人から80代の長老まで幅広い世代が参加し、いいワークショップになりました。
 3日間という時間をとってよかったのは、ワークショップの中で参加者の感情の変化が感じられたということです。特に若いアイヌの人たちが、ワークショップの途中から本音を言い出しました。これがワークショップを動かしていき、学生も参加していたのですが、同じ世代の共感が広がり、年配の人たちにも伝わり、感情の変化が感じられました。また、ジョハンさんというマレーシアにいる人をわざわざ招いたのですが、第三者として利害関係のないところでファシリテーションしてもらったということもよかった点です。
 この場で具体的な行動提案というものがあり、それが今年のG8サミットに合わせて開催された先住民族サミットにもつながりました。サミットの前に、かつて樺太から対岸に強制移住させられたアイヌ民族を偲ぶヒーリングウォークという形を通じて自分たちの思いを伝えよう、ということが若者グループから提案され、実現しました。先住民族サミットにしろヒーリングウォークにしろ、ウタリ協会などではやりにくいことを手弁当でやっています。

 こうした取り組みの中で感じていることは、まずはアイヌ民族のことはアイヌ民族が関わらないと始まらないということです。アイヌ民族の主体性が重要です。今、準備されている先住民族サミットのいいところは、基本的にはアイヌ民族の人たちが自分たちで実行委員を作ってやっていることです。89年の先住民族会議では、準備段階ではなかなかアイヌの中で広がりが持てず、会議の成果もアイヌ民族の中でいまひとつ継続しませんでした。
 では、一方で日本人多数者の側が、アイヌ民族の問題に関わる主体的な意味とはなんでしょうか。ただアイヌの人たちについていればよいということではなく、自分たちなりに主体性をもって関わることが大切だと思っています。
 一番大きな問題は、アイヌ民族についてそもそも知らない、関心がないということで、まずはアイヌ民族の抱える問題に向き合えるようにしていくことが必要だと思います。その上で、アイヌと和人が一緒の方向を向いてやっていくということができればと思っています。新しい北海道像をともに創っていく、アイヌ民族のことを前提としながら、自分たちの新しいアイデンティティを創っていくということです。
開発教育というのは途上国のことを知った人たちが、自国に帰ったときにどう伝えるかということから始まりました。アイヌ民族についても同じで、アイヌの人たちは動いている、それに比較して、和人の側の動きは少ない。和人が和人に対して伝えていく、巻き込んでいくということが必要で、これが開発教育ということにつながるのではないかと思っています。

以上

 本研究会は、持続可能な地域づくりとファシリテーターの役割というテーマの3回の連続研究会の第2回目である。テーマとなっている「社会に向き合うファシリテーション」というキーワードは、講師の小泉雅弘氏の言葉だが、常に先を見ながらワークショップや活動を行う、実施したことが次にどう生きるかが重要である、必ずしもすべて見通した計画の上にあるわけではないが、一歩先を考える姿勢の大切さが再認識された。ESDにおいて伝統的な知恵から学ぶ、という視点が重要視されている。その際に、自然と共生するスピリットやライフスタイルを学べ、という見方が主流であるが、同時代を共に生きている者同士として、「植民地化された」先住民族の持つ歴史性や課題を共有することや、先住民族という前に、異なる文化を持つ人々という理解の仕方が必要ではないだろうか。(ESDRC 上條直美)
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