【はじめに】
住民参加型調査を進めることは同時に住民組織の開発プロセスでもあります。今日は、私が関わっている山村の事例に沿って、ファシリテーターとしての自分の関わりをお話ししたいと思います。
そもそもワークショップとの最初の出会いは、1990年の世田谷区のまちづくりハウスの実験プロジェクトでした。それ以前から住民参加の手法に興味は持っていましたが、ワークショップ手法との出会いは目から鱗の驚きでした。その後すぐに、環境教育プログラムとの出会いがあり、幾つかの研修に参加しながら、自分なりに「地域づくりの学習プロセス」のデザインを構想するようになりました。
1997年8月にフィリピン教育演劇協会(PETA)が行っているワークショップに参加し、衝撃を受けました。PETAが実践している問題の当事者の方と関わり、演劇的手法による創造性ファシリテーションやエンパワーメントを目の当たりにして、自分がこれまで行ってきた参加というものを見直さざるをえなくなりました。その後、環境デザイン、幼児教育、認知心理学、学習理論とワークショップの関わりなどをいろいろ勉強しました。
エコミュージアムは、地域全体を博物館と見立てて、博物館の3つの機能を地域で展開しようというものです。
- 資料の収集保存(有形無形の地域遺産と人々の記憶を現地保存する)
- 資料の調査研究(専門家と住民との協働により)
- 資料の展示教育(地域遺産の価値を伝える展示と教育プログラムの展開)
エコミュージアムは、もともとは1960年代にフランスで生まれ、1972年ストックホルムで開催された国連人間環境会議に向けて国際博物館会議(ICOM)から提案されました。博物館から環境問題に貢献しようというものです。
【福島県三島町におけるエコミュージアムの実践】
福島県三島町は、奥会津の原風景を残した山間部にある人口2100人ほどの小さな町です。この地域に関わるようになったのは、地域開発シンクタンク研究員時代に三島町の「ふるさと運動」を知ったのがきっかけです。10年ほど前に「東北まちづくり交流集会」の事務局として三島町を訪れました。当時拠点になっていたのが「山びこ」という博物館で、エコミュージアム的な発想をもった学芸員さんが面白いことをやっていました。後に「三島町エコ・ミュージアム構想」について知り、2005年1月の吹雪の日に三島町を再訪しました。エコミュージアム研究の一環として三島町を調査させて欲しいと申し入れたところ、逆に地場産業振興の一環として三島町が実施準備を進めていたモニターツアーの企画・評価の手伝いを頼まれてしまいました。その担当課長が、かつての「山びこ」の学芸員でした。
奥会津地方は急峻な地形に囲まれた多雪地帯で、その中央を流れる只見川はダムに好適な立地条件でもあります。もともとは日本で最大級のブナ林が広がる広大な森林地帯があり、縄文時代の遺跡から出た漆や編み組などの工芸技術は、江戸時代には会津藩を支える特産品でした。今でも、江戸時代の面影を残すような町並みが残り、多くの伝統芸能や民俗行事が国指定の無形文化財に指定されています。
昭和16年から電源開発のためのダム工事が始まり、その第一号が三島町にある宮下ダムでした。それ以降昭和30年代までに流域に64基のダムが建設されました。昭和30年代末にはダム建設は下火となり、昭和40年代以降は急速な過疎化・高齢化が進行しました。
【ふるさと運動の展開】
三島町の人口が昭和45年の国政調査で人口減少率が県下第一位になったことに危機感をもった行政が、昭和49年に「ふるさと運動」を開始しました。「ふるさとを持たない都市住民に三島町が「ふるさと」を提供し、その交流によって地域を活性化しよう」という、都市農村交流のわが国における嚆矢でした。「ふるさと会員」の家族を三島町の民家に受け入れて、今でいうグリーンツーリズムの民泊のようなことをやっていました。ユニークな施策としてマスコミ等にも大々的に取り上げられて、会員世帯も800世帯を超える成功を納めました。この「特別町民制度(ふるさと会員)」の後、「ふるさと運動」は「生活工芸運動」「有機農業運動」「健康づくり運動」「地区プライド運動」などの5本の柱に発展し、観光産業や移住者の転入などにも多くの成果をあげました。
しかし、行政主導事業の限界もありました。ひとつには施設整備に多額の予算を投入しその採算が取れないことが財政を圧迫してきたこと、そして「ふるさと運動」を引き継ぐ若い世代を上手く育てられなかったことでしょう。三島町では今、「ふるさと運動」30年の総括と次なるビジョン構築が課題となっています。
2005年3月にモニターツアーを実施・評価して発見したことは、
- 奥深い田舎体験を求めるお客さんは、全てプログラムされるよりも自由な時間が欲しい。従来の観光的な「もてなし」にも一考が必要。
- 地元の名人達人がたくさん居るのに、その体験プログラムを企画運営できる発想・技術・人材が足りない。
- 行政主導の事業が多く民間とのつながりが弱い。民間的な発想で柔軟に企画実践を支援する中間コーディネート機関が必要。
そのような中で、あらためて「エコミュージアム・プロジェクト」という町役場の若手職員を中心に、地元NPO、住民有志、外部の人間も入れたグループが生まれてきました。2006年6月のことです。いわば「ふるさと運動世代」の次を担う官民協働の自発的な地域活性化集団で、21世紀に三島町は生き残れるか(持続可能な農山村)という危機感を持って、さまざまな活動を始めています。その活動を3つに分類しています。
- ふるさと再発見
- ふるさと新生
- ふるさと発信
初年度(2006年度)に行ったことは、「地域資源の再発見調査」という名の住民参加型調査ワークショップでした。これまでの観光資源というと、観光施設整備や特産品開発に重点が置かれていて、いわば「背伸びをした観光」でした。これからの持続可能な都市農村交流を進める土台として、まず住民の「ふだん着の暮らし」を見詰め、その中に息づく生活文化の価値を見直すこと、その調査に都市部のボランティアも参加することによって、「ふだん着」のままで交流や観光が成り立つことを体験的に理解してもらうことを意図していました。
手法としては、水俣市の地元学で確立された「あるもの探し」や、琵琶湖周辺の地域学で開発された「今昔写真調査法」などをワークショップ形式で行いました。プロジェクトメンバーが大谷という集落に入って、ワークショップを地元の方と一緒に活動する方法論をOJTで学びました。同じ三島町内でも、保存食などの作り方は地区によって異なり、身近な距離でも文化の差異があるという発見もありました。第2回は、都市部のボランティアを呼び込んでワークショップを行いました。初めて田舎の家を訪ねる人達に、3つの約束を守るよう注意しました。「よそ者の役割はまず吃驚すること、次に吃驚したことについて質問すること、そして注釈をしないこと(自分の物差ですぐに解釈しないこと)」このルールに則って実施した交流ワークショップによって、地元の人たちも・都市部の人たちもふだん着の「地域の凄さ」に改めて気づくのです。3回目は「今昔写真調査法」を実践しました。地元の子どもたち10人に集まってもらい、大谷地区の40-50年前の写真を次々とスライドで映しながら、親や祖父母の世代と一緒に語り合いながら交流するプログラムです。ずっと変わらない自然や家並みがたくさん在る一方で、人の暮らしぶりの変化の大きさに驚かされました。その他いろいろな思い出話や記憶が引き出されて、同世代間でも異世代間でも、初めて知る話が数多く出ました。
こうしたプログラムを通じて、地域資源の価値を再発見したり、地元の子ども達や都市住民を巻き込んで展開したい交流事業のアイデアが出てきました。あるお寺は、かつて冬期の季節分校として地区の子ども達が先生と一緒に寄宿生活をした思い出深い場所でしたが、今では空き地になっています。この場所を「大谷季節分校」として復活させて、四季折々の自然文化体験や都市農村交流プログラムを展開する案などが生まれました。
次年度(2007年)には、体験学習法にもとづくプログラミングや都市農村交流のコーディネーターとなる人を育てることを目的に、「奥会津案内人」講座を開講しました。東京圏でもIDECが呼びかけて、奥会津でインタープリターをやってみたいという受講生を誘致しました。各回は1泊2日の研修で。全体で5回64時間のカリキュラムでしたが、各回ごとにフィールドワークとワークショップによる演習を必ず入れました。地域のくらしの知恵・田舎の若者達の頑張り・おじいちゃんおばあちゃんの生き様にふれながら、8名の研修生は、お互いの生き方・働き方を語り合い見直す場にもなったようです。
第4回の「奥会津案内人」講座として「奥会津人材育成ネットワーク集会(東北環境教育ミーティング)」を三島町と周辺町村で開催し、現地スタッフと研修生がその準備・運営に当たりました。小雪のちらつく奥会津の地に全国から100名近くの多彩な顔ぶれが集まりました。各地の一線級のゲスト講師が開催した分科会にスタッフとして参加した受講生には大きな刺激になったようです。そうした刺激もあり、第5回の講座では、「自分の事業計画を作る」という研修で11本の事業計画が生まれました。
2008年2月には、町民に向けた「奥会津案内人」講座の活動報告会と「エコプロ・カフェ」を開催しました。こうした活動を軸にして、私とエコ・プロが外部者と地域をつなぐ触媒となって、さまざまな活動も派生しました。東北電力「まちづくり元気塾」、NPOえがおつなげて「箱膳食育イベント」などを受け入れたことで、町内に女性有志グループによる「食」のコミュニティ・ビジネスの起業が始まり、商工会青年部におる「奥会津モニターツアー」の実施、「三島町広報」のコンクール入選など、外部に向けた発信と評価も高まっています。
【エコ・プロの成果と課題(中間まとめ)】
①エコミュージアムの実践的理解
②人材育成事業の始まりと定着
③情報発信とネットワーク活動の活発化
④コア・チームの立ち上がりと自信の獲得
⑤触媒としてのエコ・プロの役割
⑥行政の理解深化と推進体制の強化
⑦「地域再生」への意欲と活動の顕在化
2008年3月31日に、エコミュージアムNPOを設立するための発起人会が開かれました。これまで任意団体として活動してきたエコミュージアム・プロジェクトの活動内容や役割を地域内外の人々により明確に示し、責任をもって継続的に活動しようという意志の表れです。エコミュージアムの立ち上がり期から次へ進むための重用なステップだと思います。
2008年度からは、エコミュージアム担当の職員が2名に増えて、産業課と生涯学習課の両輪体制になりました。職員数37名のうち2人配置は大きなことです。
行政主導のまちづくりから、住民主体で開かれた参加の場を、民間の発想力や機動性を活かした事業や組織をつくりたいと、三島町では「エコミュージアム」の名のもとに今さまざまな活動が試みられています。若手グループは、先人達の残した「ふるさと運動」という遺産の継承と改革という課題に向き合いながら、ファシリテーション技術の移転や人材育成プログラム、都市農村交流の新展開を担うコーディネート機関の設立などを進めながら、その中で「行政‐企業‐NPOによる協働トライアングル」によって地域再生のモデル・コアを形成するという将来像も、うっすらと構想し始めています。2008年度末には、エコ・プロの3年間をふりかえって、「地域創造のサーキットモデル」(北海道大学の敷田麻実さん提唱)を使った自己評価ワークショップを行うことも検討しています。
「地域創造のサーキットモデル」の循環図 ・・別図参照
① ミッションをたてる(店をひらく)
② 地域のネットワーク作り
③ 外に発信するためにわかる形(イベント、商品)
④ 外部からの評価を受ける/評価=情報が広まる
⇒1~4がサイクルとなり繰り返す。
【最後に】
ファシリテーションという視点で言えば、私が外部者として心がけてきたことは、まず「ふるさと運動」30年の実績と誇りを尊敬し、地域リーダーの言葉に真摯に耳を傾けること。その中に地域の課題も可能性も読み取れるからです。その上で、客観的事実と問題点の指摘を行いながら提案すべきは提案すること。若手メンバーや地域住民の不満・悩み・もやもや感などにじっくり付き合いながら、そこから何かが生まれるプロセスに付き合うこと。そして情報の精度を確認し(地域では不確かな噂で人々が動くことも多い)、やることの優先順位や計画的な進め方の整理すること(行き当たりばったりの活動で疲れて、結果や評価はうやむや…というパターンも多いから)です。20代のプロジェクト・メンバーは、ここ数年で目にどんどん意欲的になり、目に見えて能力も向上してきました。
私は、「プランナー」と「ファシリテーター」という言葉を呼び分けています。どちらも「文脈形成」を促す役割を持っていますが、「地域の(集団の)文脈形成」をする人をプランナー、「個人の文脈形成」に寄り添う人をファシリテーターと分けて考えています。これまでの地域づくりファシリテーションは地域の文脈形成が大部分でしたが、これからは、個人の文脈形成に目配りと働きかけができるファシリテーターが必要だと思っています。
【参考:ファシリテーションにおける「O-A-Oの原則」】
PETAの演劇ワークショップから学んだOAOの原則とは、Orientational(目的を共有する)、Artistic(手法や情報を共有する)、Organizational(組織力やチームワークを高める)という参加型学習に必要な3要素を循環的に「場」に提供するというやり方です。
この順序、この視点を意識しながら、「場」の設計とメンテナンスをすることが有効です。そしてもうひとつの「A」Acceptable 受容的な雰囲気づくりが大事です。プログラムがないところでのファシリテーションを生成していくためには、即興演劇のメソッドが役に立ちます。
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