1.PRAファシリテーター カマル・フヤル氏と日本へのPRAの紹介
カマル氏が初めて来日したのは、2000年10月16日~11月20日、開発ワーカーである中田豊一氏の招聘による。中田氏はその著書『ボランティア未来論』の中でもカマル氏について記述している。その出会いは、中田氏がネパールのポカラでJICAのプロジェクトに携わっていた時にPRA研修の講師としてカマル氏を招いたことに始まる。カマル氏は、1997年に出版された『ネパールにおけるPRA実践者一覧』にも名前が掲載されるほど評判の高いファシリテーターであった。
最初の訪問先は、京都の高等学校であった。PRA実践のために最初に農村に入るとき、ファシリテーターは初めて出会う村人たちと関係づくりを行う。それを4月に初めて担任になって教室に行く日本の学校の先生になぞらえて、どうやって生徒たちのニーズをひろうのか、関係を作っていくのかという点で教師にとっても学ぶ点があるのではないか、というのがその動機であった。京都を皮切りに、1ヶ月間で、小学生124名、中学生45名、高校生370名、大学生175名、教員50名、開発協力専門家60名、その他261名、計1085名もの人々がカマル氏のワークショップを受けた。この間、10月30日~11月1日にFASID(国際開発高等教育機構)で行われたPRA研修が日本で最初の本格的なPRA研修であったと考えられる。
2.PRA研修プログラムの特徴
カマル氏のプログラムでは、1)ネパールの素晴らしいところを伝える、2)ネパールと日本の比較を軸に、「問題ばかりを見ないで、本当にいいところを探す中に、問題解決のヒントが隠されている」「楽天的に自分や学校や社会を見ていこう」というメッセージが強調されていた。具体的な手法(ツール)は、social map(社会マップ), resource map(資源マップ), pair-wise ranking(二項ランキング法)(3)などで、また写真、ポスター、絵葉書、楽器、人形、民芸品、生活用品など実際に触れてみることができるものも用意された。プログラムは、参加者の期待に沿って柔軟に組み立てられた。
日本での初めてのワークショップを通じて、カマル氏は人前で自分を表現しない、語りかけても返事をしない無表情・無反応な日本の青少年に衝撃を受けた。これを見てカマル氏は授業の途中でグループワークに切り替え、自分は小グループでの話し合いを手伝うという役回りに徹した。生徒たちは次第に自分たちの気持ちを表現するようになったが、意見を引き出すまでには至らなかった。こうした傾向は、青少年に限られたものではなく、教育や社会活動に携わる大人にも見て取れた。一方で、小学生、特に低学年の子どもたちはそうではなかったことから、日本社会では年齢が上がるに連れて人前での自己表現に消極的になっていくという分析をカマル氏は行っている。「日本には素晴らしい未来がある。上手に働きかければ子どもたちはいくらでも応えてくれる。ネパールの子どもたちと基本的には何も変わらない。素直でかわいくて、好奇心と感受性に満ち満ちている。さらには、日本にはこれだけの施設、インフラ、資源がある。これを上手に使えば、どれほどのことができることか。社会資本の著しく乏しいネパールからすればうらやましい限りだ。こうした条件を生かすためにも、人の訓練が大切だと思う。ここに日本における参加型学習の意義と必要性がある。」
これを機にカマル氏は、JICAなどの招聘で来日するようになり、幾つかのNGOとの関係を持つようになった。
3.DEARとの関わり
DEARは、2002年夏京都で開催された開発教育全国研究集会にカマル氏を招いた。ダグラス・ボーン氏(当時英国DEA(開発教育協会)代表)、キャシー・ミドウィンター氏(英国マンチェスター開発教育センター)、全定根氏(韓国:当時立教大学研究員)に並び、海外ゲストとして参加した。
カマル氏は、典型的なネパールの農村の様子を、ロールプレイの手法を使って展開し、社会的弱者が村の中で声をあげられない状況にあること、そして彼らこそが多数派であり、開発の恩恵を被るべきであるにもかかわらず、外からの開発援助(協力)者からもいかに無視されているかを参加者に疑似体験させてくれた。村の中における“中心-周縁”関係はネパール社会にも日本社会にも、そして世界にも当てはまるという問題提起を行い、最後に”Development is sharing happiness.”(開発とは幸せを分かち合うこと)と締めくくった。
4.関西でのPRA/PLAの実践事例~教材作成スタディツアー
2002年12月21日~2003年1月1日、アジアボランティアセンター(AVC)と開発教育研究会(京都)の共催で、教材開発を目的としたネパールへのスタディツアーが実施された(4)(当初2001年に予定されていたがネパールの政情が不安定であったために1年間延期)。事前学習会3回、帰国後5回の教材作りセミナーを行い、2003年5月に開発教育セミナーで「ネパールから見える日本の今」という教材発表会を開催し、6月7日に報告書作成に向けた最終全体セミナーを開催した。このツアー全体のコーディネーターをカマル氏に依頼し、ツアー6日目にはカマル氏のPLA実践を見学した。場所はシャパ郡シブカンジ村で、参加者は村の女性40名。「リソースマップ作り」に始まり、「村の良いところ探し」「自分たちの良いところ探し」「改善すべきこと探し」「ペアワイズ・ランキングを使った問題解決に向けての話し合いとそれに基づく計画作り」と展開した。天然資源、人的資源、社会的資本、経済的資本に加えて、人間自身(人的資源)と社会関係づくりが中心的課題であった。
5.関西でのPRA/PLA(5)の実践事例~奈良県東吉野村、きっかけとなったPLA
2003年8月には、開発教育研究会(京都)はカマル氏と共に、奈良県東吉野村大豆生(まめお:研究会メンバーの西上寿一氏の故郷)でPLAを行った。 PLAの主な流れは、「親密な関係作り」→「村の状況を見る」→「計画」→「実施・実行」→「評価」である。東吉野村では、「親密な関係作り」から「計画」までが実施された(6)。
関係作りと村の状況観察のために「トランセクト・ウォーク」を行い、「社会マップ」で地域のリソースを明らかにしていった。この段階から、村人たちの参加の度合いが高まり始める。「ヒストリー・タイムライン」では地域の歴史を聞き取り、問題の原因を探り、「日常生活の記録」を経て、大豆生と他地域のつながりなどを「移動地図」として描いた。「組織分析」「資料分析」「季節カレンダー」を踏まえて「いいところ・改善点探し」をし、「プラン作り」で5年後の村のイメージ共有をした。
東吉野村は住民の多くが高齢者で、若者も進学によって村を離れ、実際に計画を実施するには様々な困難があった。その頃のことを西上氏次のように語っている。「始めた頃は、山村の人たちの中にある『あきらめ』という点が、一番気になりました。子どもたちはみんな町の方へ出ているし、自分の代で終わるのだろう、今更何をやっても無理だろう。ということや、この不景気の中、木材の需要が良くなることはない。必然的に仕事もないわけだから、人が住むこともないだろう。また、この地域だけの何十年と持ち越してきている課題があって、それが村人同士の仲をも複雑にさせている。こうした否定的な状況で、PLAが行われたわけです。表面的には、快く町から来た人を受け入れて、ワークにも参加してくれたわけですが、本音の所では何も変わらないだろうという気持ちが私には感じられました。ただ、その中でも、こうした機会は初めてだったので、お互いに村の行く末を話し合ったことはとても貴重が事だったと思います。『いいことをしてくれた』という感想を少ないながらも聞かせてもらいました。こんなこともあって、PLA後はなにも起きなかったのだろうと思います。ローカルファシリテーター不在ということも大きかったと思います。いろんなプランが出てきたけれど、誰がいったい進めていくのか、それは常に他者に依存しているという状態でした。私にしてみれば、PLAで出てきたプランは、理想的だけど現実からするとかなり飛躍しているので、一人や二人からでも始めることができるもので、少しずつ輪を広げていければということを考えていました。また、できることからはじめて村の人たちに何かができるかもしれないと感じてもらうことも大切だと思いました。」
東吉野村での次の動きは、村内の伝統の見直しがきっかけとなった。「次の動きのきっかけになったのは、Uターンする人が出てきたことです。私自身が行ったり来たりするよりも、その人が村に住むということで、何かできるかもしれないと感じたからです。それで、休耕田を利用して自然農による米作りを始めました。その手伝いとして、私の知り合いの町の人たちにも、何人かいつも参加してもらっています。同じ頃に、秋祭りを保存会として継承できないかという話が出てきました。もう村だけで続けていくことに限界を感じてこられたからでしょう。私は、これは絶好の機会だと思いました。全く新しいことを始めるには、抵抗が大きいけれど、今までのことの延長で、しかも秋祭りという魅力的なイベントなので、それには積極的に参加してくれるだろうと思ったからです。いざ、設立に向けて話し合いを始めてもなかなか前には進まなかったのも事実です。5年先10年先が見えないのに、保存会を作っても続けていけるのかということや、村外の人たちに参加してもらうと自分たちの祭りではなくなるのではないかとか荒らされるのではないかとかさまざまな否定的な意見もたくさん出されました。私は、自分の中ではPLAの延長だと考えていたので、保存会は単に祭りの維持だけではなく、村の持続的な発展にも寄与していこうとで、はじめから強くねばって主張を続けました。今、思っているのは、立ち上げのメンバーに加わってくれた人たちは、祭りよりもむしろそちらの方に共感して、集まってくれたように思います。保存会を立ち上げた後は、とにかく村のさまざまな行事に積極的に参加して、祭りだけではないことをアピールして村人の信頼を得ようと努力しました。今では、村の役員に保存会のメンバーがたくさん入り、大きな信頼の下に動き始めているように思っています。また、保存会を立ち上げて、その反応がさまざまな所から帰ってくるようになってきた事もうれしいです。例えば、隣村が保存会は立ち上げられなかったけど、祭りに参加できるようになったり、昨年、神楽という伝統芸能を保存していく事になり、20年ぶりに復活したり、村内の人たちに少しでも可能性を感じてもらえたのではないかということです。それは、おそらくふるさと通信として情報を発信してきたことも、良かったのではないかと思っています。」
今春、奈良女子大の学生15名ほどが村に関心を示し、保存会やPLAの話を聞きに村に来ることになった。
「村内だけではなく、村外の人たちにも関心を示してくれる人たちも現れて、例えば、ネパールツアーのリユニオンのメンバーが大豆生ツアーを組んできてくれたときなどは、PLAの一部を取り入れたプログラムをすることができます。村内の他地区には、神戸の方から移り住んで、NGOを立ち上げた人もいますし、便利屋として一人暮らしを支援するような仕事を町の人が作って、神楽の保存に協力してくれたりしています。今後はそういう人たちともつながっていければ、また何か見えてくるのではないかと思っています。開発教育が大事にしてきた『あきらめない』ということやPLAの基本となる『現場から学ぶ』ということを実感しています。そういう意味では、PLAは、一時的なものではなくて、ずっと継続して底流に流れているもので、そのことを知っている者が一人でもいることが柔軟に対応していけるキーポイントになるのではないかということです。」
5.小豆島での実践
カマル氏は2006年度前期に関西学院大学社会学部に招聘され、半期のコースを担当した。カマル氏の来日を活用し、香川県小豆島のNPOいきいき小豆島とDEARの共同企画で、7月14~15日ESDセミナーを開催した。参加者は延23名(小豆島島民14名、香川県民2名、他都府県7名)(7)。プログラム概要は次のようなものであった。
1)目標と期待される成果:小豆島でESDに関する地域ミーティングを開催したが、その後のつながりを継続させ、小豆島でESDを推進していくこと
2)使用したPRAのツール
(*豆を使った自己紹介)
(*持続可能性のイメージを話し合う)
●トランセクト:4グループに分かれて2時間のフィールドワーク
●マッピング(地図づくり)
(*体ほぐし、頭ほぐし:ネパールのダンス、ジェスチャーゲーム)
●PAPA演習:自分のいいところ7つ、改善点3つ、夢2つ、そのためにすべきこと
●PAPA演習:トランセクトをふまえて
(*ブレーンストーミング:持続可能な小豆島に向けてできること)
3)参加者の評価
参加者の反応としては、小豆島の内外の人たちが一緒になって小豆島のことについて話し合ったので、客観的に小豆島の特徴を知ることができたり、島の人たちの意見が引き出されるといった積極的な側面と、島民の参加者数が少なかったこと、問題が大きすぎてどうしてよいかわからないといった意見の両方が聞かれた。PRAの手法に関しては、シンプルだからこそ心に残ることが多かった、という感想があった。
4)PRAの良いところを引き出せた要因
・主催者側の準備(フィールドワーク(=トランセクトウォーク)の下見、環境問題への意識啓発)
・外部の人の視点(自分の住む場所の良いところを改めて見直した。フィールドワークのグループも
島民と外部者の混合で、交流が進んだ。)
・小豆島の時間の流れとカマル氏のゆったりしたファシリテーションの相性がよかった。
・主催者の目標と空間把握のPRAのツールが合致していた。
5)PRAの良いところを引き出せなかった要因
・具体的なアイディアはたくさん出たが、それらを実現させるという具体的な目標がなかったので、
そのままになってしまった。(1回限りのワークショップ)
*ESD地域ミーティングの継続という目標がありながら、参加者が重なっていなかったことは、地域における継続性に対してマイナス要因ともプラス要因とも受け取れる。また、参加者の中で、すでに特定テーマで活動している人たちと、そうではない人たちが混合していたことも同様の評価である。
6.PRAを活かす条件、環境とは?
小豆島におけるESDセミナーのコーディネーターを引き受けてくれた池田幸恵氏(四国EPO)は、島の参加者の声として「小豆島の価値の再発見に繋がった。『この島を守っていかないと』『何かを変えないと』という気持ちは皆同じだということを感じたが『自分がやらねば誰がやる』というところまでモチベーションは上がらなかった。しかし経験したことはとても意味深かったと思っている―どちらかというと、じんわりとした気持ちの変化。自分の課題や目的に対して、今住んでいる小豆島を捉えてそこから再度見つめなおす、ということができた。」と語っている。また“その後“を「カマルさんのワークの後は参加者で仲のいい人たちが時々集まって(お茶して)話をする程度で、同じメンバーで再度集まったということはありません。しかし、カマルさんの来島後、ESDの広がりとして、萩本さん代表のNPOいきいき小豆島が2007年6月に『小豆島が好きな人が小豆島を考える』という集まりを開きました。萩本さんがカマルさんのWSを経て、小豆島の人が小豆島について思っていることを共有することの必要性を強く感じたからです。この時はESDという言葉をあえて使いませんでしたが、カマルさんのWS参加者もいて、環境、福祉、町おこしの3つのテーマで何が課題でどうすればいいのか等を話し合いました。これまで島の中で活動している人たち(分野はいろいろ)が集まる機会もほとんどありませんでしたが、いざ集まってみるとみんな島のことをすごく大切に考えていて、行政抜きで改善はあり得ない(=アンチ行政ではなく行政と一緒に動くことで初めて物事が変わっていく)、けれども民の力がないと細かいところまでは物事を見ることができない(地域住民主体でないとダメ)という共通の認識があることもわかりました。良さでもあり悪さでもありますが、仕事では行政の方も家に帰れば地域の住人になります。島ではその距離がかなり近いので、変に事を起こして人間関係を悪くしたくない、という気持ちも島民には強く働いていて、それが行動を起こしにくくしているのではないか、そんな意見もありました。その点、萩本さんのように『小豆島生まれだけど仕事で島外にでてしまい、定年後に戻ってきた人』というのは、半分島の人、半分第三者として動くことができるので、こういう会を開いて声をかけることも比較的しやすいのだと感じます。島の人も萩本さんのようにしがらみのない人だと本音も言いやすいんだと思います。カマルさんのWSから何かしら集まる機会が小豆島で継続されていて、それは必ずしも同じメンバーではないけれど、少しずつ知っている人が重なって繋がっている、というような状況です。」そして、次のようなことが見えてきたとも言っています。「ワークショップだけだと島のよさや課題ははっきりするものの、島の人がその問題を解決するのに、誰がいつまでにどうやるのか、という計画をしっかり立てることができないためにどう行動に移せばいいのかがよくわからない、そのためにせっかく出てきたアイディアがアイディアで終わってしまう、ということは言えると思います。また、事例など参考になりそうな情報を得られる場所がどこかわからない(萩本さんのように自分から探しに行ける人は少ないと思います)というのもあると思います。もう少し小さなテーマで(例えば島で車も運転できず、バスの通らない地区のお年寄りの病院通いをどうするか、など)計画を立てて解決していくような経験があると違うのかもしれません。また、ESD的視点やカマルさんのワークショップで大きな概念がわかる、気づく方と、『そういうのもいいけど、それより目の前の空き缶拾おうよ』という方とのギャップも感じています。(これは萩本さんもおっしゃっていました。)いずれも大事ですが、目の前の解決と遠い未来の解決の両方を捉えるのって、毎日の生活の中でフツーの人がフツーにそれを考えるのって実は難しいことなのかしら、と思ったりもしています。(それをフツーにするのがESDだとは思っているのですが・・・)」
大豆生と同様に、小豆島でもPRAはきっかけを作ったという点では評価できる。また、ローカル・ファシリテーターの意味という共通の課題も見えてきた。
ロバート・チェンバースは「人よりもモノ、判断よりも計測、包括主義よりも還元主義、上位による下位支配、トップダウンで中心から外部へという傾向がこの社会を覆っている。」(『開発の思想と行動』、明石書店、2007)と言っている。こうした状況を打開するためのツールとしてPRAが生み出されてきたのだが、これは何も途上国のみのことではなく今日の日本社会にも当てはまることが見える。チェンバースは続けて「貧しく弱く傷つきやすい人たちが自らのリアリティを表現し計画し行動することができるようになる社会作りが待たれます。」と言っている。日本の文脈で言えば、草の根の人びとのエンパワーによる「お任せ民主主義」からの脱却ということになろうか。
7.終わりに
山下惣一は『日本の“村”再考』(現代教養文庫、1992)で1970年代に「農民は自分たちのことをよく分かっている」と言っていながら自律的な農業が営まれてこなかったのは、小学生が年齢を重ねると表現をしなくなるように、人びとも力を奪われていったということなのかもしれません。それが、日本社会の「開発」によるものだとすれば、今改めて「開発」を問わねばなりません。そして、子どもが無表情になるのが「教育」の結果であるならば、「教育」を問わねばなりますまい。」と語っている。
カマル氏の行った「良いファシリテーターとは」というブレーンストーミング(8)では、意見をattitude(態度), knowledge(知識), skill(スキル)に分類したところ、attitudeに意見が集中した。ファシリテーターは教師でもインストラクターでもリーダーでもない。私たちに必要なのはマニュアルなのだろうか、それともガイドラインなのだろうか?カマルさんがこのプログラムで最後に問いかけたことを紹介して、この報告をして終わりたい。
「医者選び」をする場合、a good and able doctorがbestで、a bad and unable doctorがworstだろうか?a good but unable doctorとa bad but able doctorをどう評価しますか?前者は能力はさほどでもないが他の医者を紹介する判断はできる。後者は有能ではあるが何かトラブルを引き起こしたりする可能性があるかもしれない。さてファシリテーターは?
(註)
(1)PRA=Participatory Rural Appraisal(参加型農村調査法)
(2)<謝辞>本報告にあたっては、中田豊一氏HP「カマル開発教育ワークショップ《実施報告》」を参照している。また、西上寿一氏、池田幸恵氏からは改めてプログラムの振り返りを寄せていただいている。
(3)『参加型開発による地域づくりの方法 PRA実践ハンドブック』(ソメシュ・クマール著、明石書店、2008)の訳に従っている。
(4)スタディツアーの報告書『参加型でつくるスタディツアーから開発教育教材へ―ネパールを歩いて・見て・考えた、日本の社会』(AVC,2004)は、実践報告書であると同時に教材集になっている。
(5) PLA=Participatory Learning and Action(参加型学習行動法)
(6)『2008年度持続可能な開発のための教育~総合カリキュラム開発のための調査研究事業報告書』(DEAR、2009)に詳しい。
(7)DEARからの参加者は、岩崎裕保、湯本浩之、西あい、上條直美
(8)2004年7月18日~19日に関西セミナーハウスで開催されたワークショップ。テーマは”Facilitation: what, why, and how?”。参加者16名およびスタッフ2名、ボランティア3名。
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