はじめに-阿部治ESD研究センターセンター長から
2002年のヨハネスブルグで日本政府とNGOがESDを提言してから、地域における教育活動としてのESDが取り組まれている。アジアや太平洋、学校だけでなく企業も含めて活動を始めており、この活動の一環として「地元学から学ぶ」を開催することになった。
国連からESDが始まる前に、すでに日本の各地で自分たちの地域の資源、地域に適した地域づくり、内発的発展に立った街づくり、が行われていた。地元学は、私たちが注目する前から行われており、地域の人々、大人だけでなく、子どもも元気になっていく様子が見られ、ESDの一つの手法として有効であると考えている。これは、日本だけでなく、海外でも注目されており、吉本氏はブラジルに行くなど、世界各地で地元学が広がりつつある。
今回は、このような理由からESDと地元学のつながりを考えていきたい。しかし、このような狙いはあるが、3人には、このような視点・枠組みで話して欲しいとは伝えておらず、あくまで自分たちが関わってきたこと、活動してきたことを話してもらいたい。
結城登美雄氏
東北の農山村で活動してきた中で、それぞれの地元から、それぞれの地元がどのように作られてきたのかを考える。
客観的に「地域」といわれるが、そこに住むお爺さんやお婆さんは、「地元」「おらたちの、おらたちの・・・」という。それが、「地元学」のゆえんである。
村々を歩きながら、ぽつりぽつりお爺さんが話してくれることには、思いが詰まっている。
2、300世帯のある町で、そっくりそのまま小さな雑誌を作ったとき、2、300世帯なのに、なぜか3000部売れた。歴史がある町だから、「俺たちの町の冊子ができた」といって、娘、息子に送ったり、海外へも送られた。ここには、人とのつながりがある。ただし、そのことを語る場が無かったのだ。これが、初期段階の地元学である。
宮城県の北東にある半島の漁村では、使用されなくなった大漁旗を皆が持ち寄ったり、若者による劇の創作が行われた。決して上手とは言えない若者の劇ではあるが、土地の力、人の力、そこに住む人の心があり、それらが集まって地域が成り立っていることがわかる。
ある時、コンビニの無い県があることに驚き、何を食べているのか考えてみた。簡単な話、おばあさんが自分で作っていた。食堂も2軒、味も決して美味しいとは言えない、何も無い町だが、コンビやスーパーは要らないのである。
宮城の国体で使われた場所に、2200世帯から800の食事が持ち寄られてきた時、「うちの村には何も無い」「コンビニ、スーパーも無い」と思っていた村の人が、これを見て驚いた。食べ物の力や人とのつながりには食べものがある。
また、日本中どこにでもある郷土資料館を、田舎のレストランとしてお弁当を作ったとき、地元の人は500円、2000円(結城氏提案)と値段が異なるのはなぜか。おばさんたちは、「こんな田舎に誰が来る。500円なら売れる。」と考えている。値段は1000円で落ち着いたのだが、300人の行列が出来、100食しか作れなかったので、5分で完売した。ここに、地元学の課題があるという。
学生に「地域とは何か?」と聞かれた時のこと。『地域とは、家族の集まりである』と定義している。では、家族とは何か。ファミリーはラテン語のファミリアを語源としているが、一方で、ファーマーもある。日本の歴史の中で、「一緒に耕し、一緒に食べる」、こういうものがあったから村があったのではないか。
幕末、近代が始まり、明治が始まり、小さな村が集まって近代が成り立ってきた。人口が多いから幸せ、少ないから寂しい、というわけではない。集落の数、戸数、人、数は減っているが、絶滅はしていない。限界集落という物差しでしか、なぜ計れないのか。日本で何百年も、村たりえ、今でもあるのか、を考えるべきであり、これが持続可能なのではないだろうか。
父親は父親、母親は母親として、願いや期待が適うものではないが、悩みや課題を抱えながら生きている存在だとする。「なんとか実現したい」「解決したい」と思うものであり、それを実現するために、解決するためにはどうしたらいいのか。実現するためには、主体が必要であり、実現し解決する主体、つまり、個人の力、家族の力、みんなの力が必要なのである。個人の力で出来なくても、それをサポートする家族がおり、同じ悩みを抱く人たちで解決する。これが、みんなの力でする地域づくりなのではないだろうか。そして、良い地域の7つの条件には、①よい仕事の場があること。②よい居住環境があること。③よい文化があること。④よい学びの場があること。⑤よい仲間がいること。⑥よい自然風土があること。⑦よい行政があること、がある
岩手県山形村では、かつて「人は一人で生きられない」という看板が捨てられていた。村で生きるのは大変なことである。しかし、与えられた自然立地をを活かしながら暮らすしかない。この地に住むことに誇りを持ちながら、都会の後を追い求めず、独自の生活文化を伝統の中から創造し、集落の共同と和の精神を持って。
この他に、日本の農業が直面している現状、そして、農家のこと、自らの食のことを考えた『鳴子の米プロジェクト』の話をしていただいた。
河野和義氏
岩手県陸前高田町で200年にも続く醸造業を営むかたわら、20年ぐらい前から地域の人々と様々な活動をしている。吉本氏とは、平成7年に水俣で出会い、「地元学をすでに行っている」と、その時指摘されて以来である。
陸前高田は、岩手県13市ある中で、統計学的、数字的には一番貧乏な町である。それは、誘致企業がほとんどないからである。さらに、漁業では隣町の大船渡と気仙沼は全国的に有名だが、陸前高田はあまり有名ではない。しかし、ある朝市に赴いた際、「おれの住んでいるこの土地って、豊かなんだ」と思わされた。
現在、立教大学の学生も訪れる、陸前高田から車で30分ほどの生出集落では、今でもみんなで助け合って、まるで一つの家族のように暮らしている。
ある朝、マツタケを持って朝市に出ているお婆ちゃんとの会話から、山のマツタケと海のアワビを交換している話を聴き、アワビなど海産物の美味しいものほど、いくらで買ってきたという話はなく、どこからか貰ってきたという話になることを思い出す。このお婆さんは、食べ物が豊かな場所は、統計学的に少々お金がなくても、実はすごい豊かだ、と教えてくれた。
本業の醸造業では、日本の大半の醤油が、脱脂大豆から製造されているにも関わらず、丸大豆から手間隙かけて味噌や醤油を製造している。また、日本に今1%しか残ってないといわれている自根キュウリを栽培して漬物にしたり、地元の小学校の5年生に、田植えと稲刈りを体験させるなど、様々な活動を行っている。その一環として、平成元年から太鼓フェスティバルも行うようになった。
太鼓フェスティバルは、900年の伝統のある地元の祭りが、危険との理由から警察にストップされたことにより、せめて、山車の上で打つ太鼓だけでも残したい、ということから始まる。初年度から好評で、2年目にはNHKで全国放送、10年目には海外の人を呼び、国際的な全国太鼓フェスティバルを行っている。そして、フェスティバルを支えるのは、毎年公募する実行委員達、その中でも裏方である駐車場係達に焦点を当てる。実行委員、打ち手、観客が三位一体となって、太鼓フェスティバルという一つの商品を作り上げるのだ。
この他に、河野氏の運命を変える出会いとして、水俣での杉本氏との出会いを語る。水俣病患者である杉本氏が、子どものためにおにぎりを結ぶのだが、ぼろぼろと崩れてしまう。そのときほど、病気を恨んだことはない、というが、子どもはそのおにぎりを美味しいという。現在、食育が流行っているが、一番大事なのは、食べ物に感謝していることではないかと、杉本氏から教わった。
最後に、人間だから7つの“ち”を行う。愚痴、無知、けち、やきもち、陰口、悪口、告げ口。そして、この7つの“ち”をやらなくなったことにより、人生が楽しくなってきた。そして、地元学に通じるかもしれない言葉として、「真剣だと知恵が出る。中途半端だと愚痴が出る。いいかげんだと言い訳が出る。」と。これまでは、愚痴と言い訳の人間であったが、地元学、あるいは本物志向でやってきたおかげで、少しは人間らしくなったと。
吉本哲郎氏
吉本氏からは、河野氏も最後に話した、吉本氏の学びの場の原点でもある、杉本栄子・杉本雄夫妻の話と、水俣の再生の中で地元学があったという話があった。
杉本家族に会ったのは、1991年である。仕事で、水俣の再生と水俣病問題の解決を任されたのである。杉本氏の話は壮絶であり、水俣病をめぐり、患者や住民の間に亀裂が出来てしまった。その中でも、杉本氏はたくましく、「水俣病のおかげで人にも魚にも出会うことができた」「今では水俣病は、守り神だ、守護神だ」という。このような心境にはとてもなれない。
大事なことは、「もやい、のさり、出会いと命」である。もやいというのは一緒にやるということ。のさりというのは授かるということ。つまり、水俣病も天からの授かりもの、積極的に不幸な出来事を受け入れていくということ。そして、昔の海べりはにぎやかであり、海の再生ではなく、命にぎやかな海べりを取り戻したい。この受難を受けた杉本栄子家族の姿には、復活に向かい生きる姿を見た。
この他に、水俣病患者の救済からもやい直しという、壊れてしまった人の関係をやり直す、そして水俣を一緒に作っていく活動を始める。また、ないものねだりをやめて、あるものを探し始める。ないものねだりは愚痴であり、あるものを探して磨くのが自治であり、愚痴を自治に変えたのである。それは、具体的には水に気をつけることである。つまり、大事なのは、水とごみと食べ物に気を付けていく、これが水俣の環境であり、世界のどこよりも厳しい。
村を丸ごと生活博物館にした取組は、外国のエコミュージアムやグリーンツーリズムという言葉に対する水俣の答えでもある。この事例から見えたのは、外に向かっていたまなざしが、自分の足元に向かい始めると、これが誇りや自信の回復につながるということである。
他にも、予算ゼロで行った地元学の事例を語る。
地元学は時間がかかる。それは、人が育つ時間が必要だからである。自分が行えば早い。しかし、自分がいなくなれば終わってしまう。当事者である誰かが、育つのをじっと待たなければならない。
地元学の後、みんなが何かしなければいけないと思うようになった。地元学で変わった人もいる。また、地元学の後、何となく目の前が明るくなった。
“エリアスタディーズ”に衝撃を受けた。エリアはアフリカ中南米であり、先進国がスタディーズ、つまり、海外の途上国の異分化を研究する。結果は植民地型経済支配である。しかし、外の人が調べるのではなく、住んでいる人が調べる。エリアは地元である。
地域の力と人の持っている力を引き出すというのを教えるのが大事である。また、調べるのを外の人だけに依頼すると、外からやられてしまう。自分たちで調べて、知を集積していかない。知の植民地にならないようにしたほうがいいと思う。さらに、己と地域をよく知らないと、外の人にかぶれたり、外の地域にかぶれたり、全面的に拒否したりする過剰反応が起きる。それはアイデンティティ閉塞症、病気である。人の話にかぶれたり、拒否するというのは、おのれと地域をよく知らないからである。
地域固有の思想と哲学と美学を持ちなさい。金がなくてもここは守るとか、金がなくともまちの中心部は動かすとか、そういう価値が共有されると思想になる。これがない。お金が価値だから捨てられていくのだ。地域社会を見る力、意見を発言する勇気、責任感、それから話し合って仲間をつくって行動する力、今、私たちが必要なのは、この練習である。特に地域社会を見る力、これは、地元学はかなりできている。
ここに生きるというのは、ここを知る、ここは危ないということを、少しでもいいから知ることである。そして、まず自分たちが元気になることである。
教えるという教育の原点は、アイヌ語じゃなくてラテン語で、エデュカーレという。これは引き出すと書いてある。教育の語源は引き出すである。愚痴を自治に変えあるもの探しから、自分たちがそしてあるものが、すごいことに気付くことから。そこに人が元気で、自然が元気で、3つの経済、お金と協働と自給自足する3つの経済が、元気な地区への一歩が始まるのだろうと思う。
詳細につきましては、近々発行予定の記録集をご参照ください。 |