【導入と概要】
阿部治センター長の「RDYは、震災を契機に学生たちに何かを感じ、そして何ができるかを考えてほしいという目的で始まったプロジェクトです。」という挨拶と講師紹介に続いて、RQ市民災害救援センターの広瀬敏通氏にお話しいただいた。広瀬氏の長年にわたるボランティア活動の歩みは、よきお手本として参加者にとって大いに参考になったようである。そして、被災地ではいま何が起きているのか。どのような支援を必要とし、復興のために今後どのような支援が必要となるのか。震災支援の現状と復興に向けた今後の取り組みについて、被災地の現場を知る貴重な時間となった。以下、講演の内容。
【1.私のボランティア的歩み】
《広瀬氏の自己紹介》
・日本で最初に生まれた自然学校「ホールアース自然学校」創設者・会長
・地域を応援するための全国組織である「NPO法人日本エコツーリズムセンター」代表
・年季の入った家畜飼い、洞窟探険家
・東日本大震災の救援組織「RQ市民災害救援センター」のリーダー
《アジア放浪期とNGO活動》
アジア各地で個人のNGO活動をおこなってきた広瀬氏。その端緒は1971年、20歳で南インド・カルナータカ州へ赴き、障害児や孤児が自立して暮らせる村の建設に携わったこと。その村で一生暮らすつもりだったという。
ところが1974年に世界中のボランティアがインドから追放されてしまったため、シルクロードを横断してバーミヤンへ移るが、1979年のソ連軍侵攻により戦争が勃発。また1979~80年のカンボジア内戦に接し、難民救援のNGO「幼い難民を考える会(CYR)」やタイ国境の難民キャンプに「子どもの家」を開設。日本政府が現地にメディカルセンターを設置する際にはその責任者となり、政府の事務所長を務めた。1981年に帰国。翌年には「国際緊急医療チーム(JMTDR)」を設立した(現在は外務省傘下)。
《自然学校と災害救援》
30代になると、日本にモデルがなかった自然学校づくりに没頭、1982年に「ホールアース自然学校」を設立した。現在、各地に3700校の自然学校があり、17万人が参加している。自然学校とは自然をテーマにした体験的な学びを提供する場であり、事業として環境教育に取り組んできた。スタッフは、サバイバルな状況への適応能力が高く、災害時にも即応的な行動ができるため、自然学校は災害救援の活動もしている。
災害列島といわれる日本は豪雨、台風、地震、火山噴火といった諸災害が間断なく続いている。そうした災害が起きたとき、とくに災害弱者(高齢者、乳幼児、障害者など)に被害が集中する。たとえば東日本大震災では死者の65%が高齢者であり、災害強者(耐震設備の整った場所で暮らす生活者層)との格差が顕在化している。それをどうにかしなくてはならない。
《国内の災害との関わり》
1995年の阪神・淡路大震災では1月19日に現地に入り、東灘小学校でボランティアセンターを立ち上げた。このとき自然学校が次々に参加し、災害時における自然学校の役割を周知させる結果となった。150万人のボランティアが動いた日本の「ボランティア元年」。これを契機に、特定非営利活動促進法(NPO法)が成立する。
2004年の中越地震では、震源地の川口町にメディアが入れず、情報が届かなかった。そこでホールアース自然学校の救援車両にテントや資材、食料を積み込んで現地に入り、ボランティアセンターを設営した。全国から、2万人のボランティアが集結。必要なものを自給する「自立型」のボランティアセンターである。
集まったボランティアの統括と同時に、広瀬氏が重視したのは、遠方から来たボランティアに対するケアである。多くのボランティアセンターでは、日帰りボランティアの参加を断ったが、広瀬氏は遅れてきた数百人のボランティアを受け入れ、現地での活動状況の説明をおこなった。個々のボランティアを何もできないまま帰すのではなく、情報を持ち帰ることで、彼ら自身の「次」の活動へとつながる意義を見出すよう務めたという。
【2.東日本大震災とRQ市民災害救援センターの活動紹介】
《RQ市民災害救援センターとは何か》
東日本大震災のためにつくられた組織。当初はホールアースや日本エコツーリズムセンターの災害対策本部(3月12日設置)で動いていたが、災害の現状を知り、多数団体の参加による市民のネットワーク型の救援組織を開設した。宮城県を中心に、岩手県は釜石や陸前高田、福島県にはホールアース自然学校や阿武隈などに別動隊のチームを置く。主に宮城県の120kmの沿岸地域をカバーし、350tの物資を210か所に連日配送してきた。
その他、温泉への送迎バス、避難所でのケア(炊き出し、シャワー、散髪、カフェなど)、瓦礫の片づけ、泥出し、漂着物の片付けなど多彩な活動を展開。7月6日現在、東北現地で12850人、東京のエコツーリズムセンターに設置した本部で1545人が活動している。
《災害救援のステップ》
災害救援は、主に次の4つのステップから成る。
①緊急支援期……一刻を争うような活動。暖かい寝床となる寝袋、防寒着、食料など物資の配送。
②被災者支援期……
「モノ」から「ヒト」へ。避難所にボランティアセンターを設置する活動を推進(3月末 から4月頭にかけて4か所)。
③生活復興支援期……
「ヒト」から「地域再生」へ。片づけ作業、復興住宅の建設、地域のコミュニティ再 建など(現状は②から③のステップ)。
④地域・生活再建期……今後の課題。
《RQの活動の特徴》
《自然学校のスキルを生かした、被災地の復興支援活動を支える体制づくり》
①公的支援が届きにくい被災地での緊急支援活動の推進
→仙台、石巻など都市機能が生きている地域でなく、石巻以北(気仙沼、陸前高田など)の情報もなく 支援が届いていない被災地の支援。登米に現地本部を置き、行政の手が届かない場所に物資を運 搬。地図に載っていない地域の情報を集め、数百か所をケアした。
②対話を通じた人と人とのつながりを重視
→ボランティアは笑顔とあいさつ。
③ボランティアを支援するボランティア
→阪神・淡路大震災、中越地震での体験から。調整機能、食当機能、後方支援機能。
④企業人、行政、子供たちに被災現場で学ぶ〈災害教育〉を
→災害時に適切な行動をとれる人材の育成
《具体的な活動事例》
●津波の漂着物の片づけ(人の手でしか作業できない山岳地域、生活地域)
●南三陸町の若者たちによる地域再生の支援
●被災住民地震による復興計画を支援
《RQの今後の活動と災害教育の必要》
ボランティア団体は緊急的・暫定的な機関のため、その時期が過ぎたら解散してしまう。けれども今回は、中長期の地域再生支援をするために、以下のことをおこなう。
①RQ関連のボランティアセンターを復興拠点の場としての「自然学校」に
→12月末日まではボランティアセンターの機能を継続。1月~3月は越冬隊でしのぎ、3月11日の1周年 をめどに自然学校を開設する。
②地域社会再生に貢献できる企業の復興ビジネス
③ボランティア、一般市民の災害教育の普及
→災害ボランティアコーディネーター養成
阪神・淡路大震災以降、全国各自治体で実施されているが、災害ボランティア未経験者が大半。2~3日の日帰り研修、テキスト中心の教材→災害現場で学ぶ仕組みがない。
⇒ 《災害教育の必要=災害現場から学ぶ/災害現場を学ぶ》
・ボランティアの副次的効果
・被災地の現場での体験的な学び=平常時とは全く異なるインパクトで体験者を変えていく。
【おわりに】
広瀬氏は「被災地では、まだ何も終わっていない」という。たとえば仮設住宅も最終解決策ではない。建物が建てられるような平地の公有地にはすべて仮設住宅があるために、その土地の都市計画は少なくとも2年間は動かせない。また小中学校の体育館などの避難所に築かれた一時的なコミュニティも仮設住宅へ移ればバラバラになってしまい、仮設住宅における人と人の絆をつなぐという課題も残っている。
今後のRQの活動として「夏休みボランティア大作戦」が企画されている。たとえば、専門家によるガイドラインに沿った聞き書き活動。3月11日以前に、どのような暮らしがあったのか。被災者一人ひとりがどんな人生を送ってきたのか。震災によって失われた町、失われた過去の記憶を、未来に伝えることの必要を強く訴えられた。
開講前の教室には、被災地のスライドと、1曲の歌が流れていた。幾度もくり返される「歩きましょう」「築きましょう」というフレーズが印象的なその歌は、岩手県大槌町出身のシンガーソングライター「RIA+ノリシゲ」が震災直後の被災地でつくった『歩きましょう』である。復興の道を共に歩いていこうと歌う彼らの思いは、被災地の現場を知り、そこに生きる人びとに心を寄せる広瀬氏の思いそのものだったのではないだろうか。
【質疑応答】
Q:①災害直後の物資運搬について。②支援地域を選定する際の交通ルート
A:①全国から集まった物資をRQが配布した。当初現地で活動しているボランティア団体はRQしかなか
ったため物資が集中。保管場所として、被災者とバ
ッティングしない場所(小学校の体育館、避難所にな
らない地区の公民館、お寺など)を利用した。
②車で走って現地のようすを手書きの地図を作成。
復興状況に応じて修正を加え、空白地域も埋めた。
Q:夏休みのボランティア参加者、またそこでのリーダー育成について。
A:すでに団体の申込はある。個人は未定だが希望は断らない方針。そのためにも夏に向けて整備することは以下3点。宿泊場所の確保、活動プログラムの策定、素人ボランティアを率いるチームリーダーの研修。
Q:災害弱者、とくに障害者についての現状について。
A:在日外国人など、様々なレベルの災害弱者が孤立状態にある。現在「RQ被災地女性支援センター」をつくっているが、障害者については把握できず、ケアできる状態にない。支援センターの立ち上げが必要。
Q:放射能に対する恐怖、被災地に入る際の気持ちは?
A:恐怖よりも憤り。福島に対する長期的かつ効果的な支援を考えなくてはならないが、従来のボランティ ア活動とは違うベクトルが必要となる。放射能に対する根本的な活動を福島発でおこないたい。
Q:どのような思いを軸にボランティア活動をおこなっているのか。
A:「自分で判断して自分で動ける人」が必要であると一貫して考えている。
Q:震災から3か月、現地での活動の中で感じる変化は?
A:被災者は被災地に帰らないのではないかと懸念されたが、誰も地元を離れない。その土地で災害と向 き合っていくという生き方を選択している。そこで、地域の人が集まり、相談できる場づくり(仮設住宅に おける集会所など)の全面的支援をおこなう。
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