岩手県陸前高田で美味しい醤油作りだけでなく地域づくりを行ってきた河野氏が、この東日本大震災で被災された。立教大学の卒業生でもあり、現在、学生がボランティアに行ったり、様々な学部・学科が関わるなど、これまで元気を与えてくれた河野氏だが、被災後の今を語ってくれた。
概要
震災当日の3月11日は東京におり、新幹線で帰ろうと上野を出た瞬間に被災にあった。上野駅に戻ってから駒込の親戚の家まで歩き、その夜に自分の家が無くなった事を知る。
昭和35年、高校1年の時にチリ津波があったが、これが皆が認識している今までで一番大きな津波だった。家の裏には400年の歴史のある文化財があり、つまり、400年津波がそこまで来なかったのだが、火災には強い土蔵の家も水に流されてしまい、200年の歴史のある建物と商売がたった10分で流されてしまった。
友人たちがレンタカーやガソリンを調達してくれ、物資を積んで陸前高田に戻ると、家族・社員はバラバラになっており、家族がいそうな所を聞いて何とか再会することが出来た。しかし、点呼の時にはいた社員が1人いなかった。その社員は消防団員だった。
陸前高田では、約300人いる消防団員のうち50人が亡くなっている。大概の町はせいぜい20人以下なのだが、陸前高田は三陸海岸のうち一番平地があるところで、車の渋滞があり、消防団員だけでなく、警察官12人のうち9人が、車の誘導で流されてしまった。市役所は、300人弱のうち、68人が亡くなっている。3階にいた人が流され、屋上にいた人までがひざまで水がつかったという。八木澤商店には40人の社員がいるが、25人が家を失い、そのうちの10人が家族を失っている。
集落の保育所・小学校・中学校は壊滅してしまったが、教員の誘導が良かったおかげで子どもたちは1人も亡くなっていない。しかし、子どもを山に誘導したお年寄りが、子どもたちの前で亡くなってしまった。これは子どもにとってトラウマになる。さらに、震災孤児が2人。陸前高田全体では中学生以下で27人、高校生以下だと33人になる。孤児院に行く子どもがいるかと思っていたが、全員親戚が引き取った。しかし、これから子ども1人になってどのようにケアをしていけばいいのか。
DVD・スライド鑑賞
帰宅したとき、どうやって潔く200年の歴史をいかに閉じるかを考えていた。正直、辞めようと思っていた。せがれは何もかも奪った津波に怒っていた。そんなせがれの方から、社長をやらせてくれないかと言ってきた。せがれの年齢は38歳。私は67歳。町の復興に20~30年はかかる。20年経ってもせがれは58歳、私は87歳。30年経っても97歳。これを考えたらさっさと譲ったほうがいいと思った。経営を一旦任せたら経営に口を出してはいけない。だが、父親だと口を出したくて仕方がない。ものすごく悩んだ。せがれとはぶつかってはきたが、日に日にたくましくなってきた。
せがれに言わせると、私は「200年ありがとう」とボランティアで物資を皆に配っている。3、4日経つと全国から物資が届いたが、市役所は住民サービスが出来ない。自衛隊が物資を届けるようになると、避難所は物資で豊かになる。1週間~10日経つと、家が残っている人の方が悲惨になっているのがわかった。「なぜ避難所に行かないのか」と聞くと、「家もない、家族もいない、それに比べ家の残った私たちが行けるわけがない」という。そこで、過去に配達していた場所で、人のいる所全部に歩いてこいと社員に言った。「八木澤商店は全て流されましたが、200年ありがとう」と。しかし、私はボランティだが、せがれは、物資がある時はタダにしますが、そのうちお金をいただきますと、仕事と考えていた。
銀行の経理事務所に八木澤商店の社員のデータのみが奇跡的に残っていたので、今までどおり給料を渡すことが出来た。渡す前日に、どのくらい来るのか聞いてみると「新入社員予定者も呼んでおいたから」という。肩書は関係ないが、パートや準社員、社員はわかるが、「新入社員まではいいんじゃないか」とせがれに話したら、せがれが怒り出した。「親父、俺に何を教えた?どんな小さな会社でも信用が大事だよ。信用は後からついてくる。社長になったとたん、内定で入れると言ったことが嘘になる。」当日、新入社員を一番前に座らせ、「何もなくなりましたがどうしますか?」と、本人たちの意思を確認すると「入りたい」といい、2人の新しい仲間が増えることになった。
応援が具体化していく中で、営業所を設け、信頼のある仲間がOEMをしてくれることになった。製造業にとっては、他社にレシピを全部差し出すことは厳しい。色んな会社に助けられながら、自分たちで製造はしていないが、自分たちのレッテルを貼って売っている。しかし、隣町の小学校の跡地に工場を建てることになった。前に進む以外にない。「ああだった、こうだった」と思い出しても何も役には立たない。
ある放送局が来たときに、私は被災したように見えないし、皆さん明るいと言った。確かに本当に明るい。しかし、メンタルケアの先生にアンケートをとってもらったところ、半分は完全なうつだと診断された。残り半分もうつ寸前ですと。皆明るいふりをしている。皆と一緒にいれば明るさが保てる。人間、一人でなった時が怖い。ただ、私はうつにはなってないですと言われましたが。
今は地元のNPOの理事長をしているのだが、八木澤商店だけがよくなっても仕方がない。50数年前の人口は32,800人。震災直前は24,000人。そのうち2,000人が亡くなった。そして、3,000~4,000人が出て行ったといわれている。そういった中、震災直後は市役所も頭が柔らかかったが、半年経つと県や国の顔色しか見ない公務員に戻ってしまった。仮設も増えたが、仮設に入る人もいなくなり、入った人は雇用がない。どうするんだ。そこで、泊まるところがないボランティアの人に、仮設体験はどうかと提案したが、仮設は被災者のためだと取り合ってもらえなかった。体験することが一番大事なのに。雇用の場を作る起業を考えていた時、ワタミの渡辺氏が陸前高田に来たので、雇用の場を作って欲しいというと、コールセンターを作ってくれることになった。コールセンターは何も東京におく必要はないのだ。他に、ヤフーもコールセンターを作ってくれることになった。このように、八木澤商店だけ良くなれば良いというのではなく、陸前高田を一つの会社と考えて、株式会社陸前高田という会社を復活させる。「言ってみるもん、やってみるもん」雇用の場がなくなると過疎になってしまう。
陸前高田がこうなればいいと、今、駄法螺を踏んでいる。陸前高田を有名にしようとけんか七夕、太鼓を有名にしたように。あるいは、30年前、輸入大豆から作る普通の醤油に対して、地元の大豆を大事にして1~2年かけて1升3,000円の醤油を作ったときのように。知恵は出すけどお金はない。町の機能が壊滅した南三陸町、大槌町、陸前高田市の3つを超特区・超法規にしてくれたら、民間人の私たちが横のつながりを作ります、まちづくりの競争をします、10、20年でコンテストをします、審査員は世界中の人ですと言っている。
陸前高田を会社にたとえると、小さい国にたとえると、電気、ガソリンは他から来てたけど、他はほとんどある。電気は自然エネルギー、ガソリンは、醸造・発酵学、東北の野菜、つまりエタノールでいつか作りたい。しかし、80~100%エタノールを入れてもいいブラジルと違って、作っても5%しか日本は入れられない。価値観を変えないと駄目。クリーンエネルギー、小さな国で作れるものは皆作る。
仮設はいつか壊す。気仙杉、気仙大工がいるのに、安いから外国産を輸入し林業は痛々しい状況にある。仮設は全部プレハブメーカーから来た。人も送ってきた。気仙大工には作らせない。大工がいるのに何で全部金を持っていくんだと話すと、下請けで仕事をよこした。結局、物だけ来て陸前高田の大工が作った。そこで、雇用が生まれた。しかし、それも終わってしまった。陸前高田の隣町、住田では、陸前高田のために住田町の議会と坂本隆一のNPOが資金援助をして、仮設住宅を作ってくれた。国の顔を覗っていたら前に進めない。過疎問題も同様。ただ待っているだけ、頂戴頂戴言っている所は後回しにしろ。いろいろやっているところを助けて何ぼなんだ。今私たちは、夢中になっていいまちづくりをしようとしている。
財産とは銀行が担保に取るものだと思っていた。しかし、全て流されてしまった。津波、震災という崖っぷちに、片足落とした状態。でも、今は津波のおかげでと言っている。今まで平々凡々に暮らしていたことがいかにすばらしかったかわかった。商売を営々と続けられ、すばらしい社員、すばらしい家族がいる。震災が無かったら当たり前だと思っていた。銀行は担保に取らないけど、最高の財産を見つけた。それは人間の繋がりと絆である。
どこにも負けないまちづくりを3つの町でやる。震災直後は、観光バスできて、記念写真を取ってる人に腹を立てた。今は、「どんどん来てください、観光でかまいませんから」と思っている。飲み食いする所はありませんが仮設のローソンや、仮設のスーパーはありますからと。今の現状を見てもらいたいという気持ちになった。そして、生まれ変わった陸前高田を、紅白歌合戦のように、会場の人たちや、年に2回以上じっくり見に来てくれた人たちを本当の審査員にまちづくりのコンテストをやりたい。「お前ふざけているのか」といわれるが、このくらいのことを考えないでどうする。苦しい苦しいばかりで、何の楽しみもない。皆で作りあげる。他には、新しいスタイルの住宅、集落ごとに違った電気の作り方、皆が見に来たくなるようなカラフルな仮設の商店街、こんなことを考えている。
そして国際防災大学を作りたい。小学生から老人まで誰もが語り部。一番大事なのは、学問ではなくて、語り継ぐこと。先日、小学生に千何百枚の絵を描かせたところ、「こんな町になったらいいな」という絵の中には、「こんなことを考えているのか」というのもある。国を当てにする地域づくりじゃなく、自分たちでどうやって自立するか。孫や曾孫のために。良い町を作ってくれたといわれるように。そして1度出た人も帰ってくるように。
頑張るだけなんて、そんな生易しいものではない。やる気と感謝。当たり前のことがそうではなかったこと。ものすごくいい経験をさせていただいた。おかげでいろんなものに感謝できる。昔は、名刺には経営理念とか書いていたが、今は、①生きる、②共に暮らしを守る、③人間らしく魅力的に、と書いている。いい経験をさせてもらった。
口の悪い友達が、「4月1日に社長やめてよかったな。いろんな人に助けてもらって、本当の助けと同情は違う。同情を頼りにしちゃいかん。同情は1年持たない。本当に一緒に取り組んでくれる人を力にしろ。せがれと交代して正解だった。世の中はシビアで、銀行や取引先は後継者がちゃんとしているか見ている。おめえよりいいや」といった。うれしかった。
社員全員で運命共同体でがんばる。株式会社陸前高田商店の精神で、あるいは小さな国の精神で、ぜひ今の状態を見てもらいたい。私の体が空いていたら案内します。そしてまた10年後、15年後の陸前高田に来てください。あの松林は千年以上かかって砂浜が出来、350年前、2人のおじいさんが防風林として私費で松を植えた。簡単に出来たわけではない。いずれ松林を作るとしても、何百年はかかると思う。新しい価値観、新しい発想を入れながらまちづくりを皆でしていく。でも行政だけに頼ることはしない。
今まで、4つの言葉を大事にしてきた。①地元、②本物、③食い物を作る人は優しくなければいけない、優しくないやつが色んなものを入れたりごまかしたり、食品の事件が起こる。④自分の考えていることは絶対良い事だと思い込むプラス思考。だから、もろ味が見つかった時、神様が「やれっ」て言っているんだと、戦前の看板が見つかったとき、「やれっ」て言っているだと、叫んだ。せがれが、「親父やろうよ」と言った時が、この言葉でがーんと打ちのめされた。震災前からいつも講演で言ってた「①真剣だと知恵が出る、②中途半端だと愚痴がでる、③いい加減だと言い訳が出る。今、愚痴と言い訳だらけの人間が多すぎる。」「親父、真剣に取組まないのかよ、今まで言ってきたことは何だったんだよ。」といわれた。「参った、やろう。」
尊敬する水俣の亡き杉本栄子さんは、「水俣病のおかげで沢山発見があった」といった。私は今、震災のおかげで沢山発見がある。杉本栄子さんに教わったのは、「なんでご馳走様っていうか知っている?いただきますっていうか知っている?それは、食い物は全部命があるから。その命を頂きますだから。世界ですばらしい言葉はありがとう。こんなすばらしい言葉はない。水俣病のおかげで皆さんにありがとうということができた」。私も、震災のおかげで素直に皆さんにありがとうといえる人間になったような気がする。ただし、震災後、嘘物と本物の人間も大分見分けることも出来た。
会場からの質疑応答
最後に、ボランティアに1歩踏み出せない学生に、そしてそれを囲む大人たちに一言。
復興は、20、30年かかる。だから、この1年でやることはない。押し付けボランティや親切の押し売りもあった。だから、一番大事なのは、長い目で見てもらいたい。気持ちだけでもありがたい。
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