【第12回 環境と文学】
2009年7月8日(水) 担当:野田研一
本授業では、文学作品にみられる具体的な〈環境〉を読み取りながら、持続可能な開発と教育における「環境と文学」を考えていく。
小池昌代のエッセイ「川辺の寝台」には、〈交感〉(correspondence)=自然からの贈与(present)が意識されている。人が自然にかかわる(触れる)ことによって、何かを手に入れる。これが〈交感〉という出来事であるが、他方、人間が自然の存在をそれと認識すること、それが人間から自然への贈与である。また、今村仁司は相互行為とは言語を介すものだけではなく、人間と自然の関係のように言語を介さない場合にも独自の相互行為があるとする。地理学者のイーフー・トゥアンは、文学や芸術もまた環境問題に対して「無責」ではないと指摘している。
映画『もののけ姫』では、二つの自然が描かれている。ひとつは、野生の自然(Wilderness)であり、もうひとつは人工の自然(Second nature)である。純粋状態の自然と、人間が手を加えてしまった自然を対比することは、日本ではこれまであまり意識されなかったことである。また、この映画は結論の出ない「答えがない状態」であるが、これこそが私たちがおかれている世界だといえる。監督の宮崎駿は、歴史的に見て、われわれがどのような自然の中にいるのかを示唆することを試みたのである。
「ことばと自然」という視点から見ると、言語学者の問いかけがある。つまり、動物や自然が消滅することは、ことばを貧弱にさせてしまうのではないか、という問いである。この問いは、ことばはそもそも自然を基盤にして成立したのではないかというさらなる問いに繋がる。
日常の中の自然についても考えたい。たとえば、ドラマなどで雨が降る、というシーンが描かれるとき、そこには悲しい・つらい・寂しいといった人間の内面が表現されている。あるいは、校歌や演歌など日常耳にするものの中にも、自然が歌いこまれていることに気づくだろう。また、なぜひとは動物を見るのか。人間は他者としての野生動物を見たいと思っており、そこに似ているけれども違う、違うけれども似ている他者の存在をとらえ、自分たちは何であるのかという問いを重ね合わせている。こうした日常に宿るささいな自然と人間との関係を考えてみることも重要であろう。
ところで、今アメリカの大学では、「ネイチャーライティング」が広がっている。これは、自然に関するノンフィクションエッセイのことを指す。ポイントは人間中心主義批判であるということで、人間の観点ではなく、自然を固有の世界をもつ他者としてとらえる視点である。ヘンリー・ペストンという作家は、自然は「人間の同類」でも「従属者」でもなく、「人間と同じく生と時間の網の目にとらわれているが、異なる国の住人」であると提起した。ここには私たちが他国や他文化をみるように、自然を固有の、独自の輪郭をもった世界としてみるべきではないか、という問いが含まれている。美術批評家ジョン・バージャーの「なぜ動物を観るのか」というエッセイは、本来容易に見えないはずの動物が、画像・映像によって可視化される現代の事態を、動物の「周縁化」にほかならないと語る。動物と人間との間に交わされるべき本来的な視線が失われているのである。
このように、環境は文学の中でも重要な役割を果たしている。また、われわれが環境を記述するさいには、人間を中心としてではなく、自然を他者としてみる視点が重要になってくる。他者としてみるとは、自己の専有物とする発想を拒否することである。これらを踏まえて、環境と文学のみならず、われわれの日常について再度考察してほしい。
|