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2009年度全学カリキュラム総合B科目:
 「ESD-持続可能な開発と教育 <持続可能な世界はいかにして可能か>」

 

【第5回 開発・国際協力】
 2009年5月20日(水)  担当:田中治彦


 今回の授業のテーマは「開発」であるが、国際協力とは切れない関係であるので、それぞれを関連づけて今回と次回の2回にわたり話をしていく。

 「開発」という言葉が世界で一般的に用いられるようになったのは、1961年に「第1次国連開発の10年計画」が開始されたときからである。また1959年に英国のオリバー・フランクスが「南北問題」という用語を初めて使用し、先進工業国と「後進国」の絶望的な程の経済格差の存在を明らかにした。そもそも「開発」という言葉は日本に存在していたが、自動詞「みずから開く」から、他動詞「(新田)開発をする」まで、その意味する範囲は広い。さらに、英語ではde-envelop「封を切る」という意味から、「発達する、成長する」と意味もあり、用法は多岐にわたる。そのような中、国際開発の意味で「開発」という言葉が使われるようになったのは、この半世紀程なのである。

 しかし、「開発」という言葉が出る前から、国境を越えた援助や協力活動は存在していた。19世紀にはクリミア戦争を機に赤十字社が生まれ、世界大戦をきっかけにセーブ・ザ・チルドレン、フォスター・プラン、OXFAMといったNGOが生まれている。また、1946年の米国主導のマーシャル・プランは、戦災に遭った欧州の復興をめざす計画であるが、これは国際協力のはしりとも言える。さらに、1950年の英国によるコロンボ・プランは、戦後独立したものの経済的自立をなしえていない発展途上国への国際協力の原点であるといえる。

 さて、前述の「国連開発の10年計画」では、開発は資金と技術の注入によってなされるものと考えられ、途上国おいてその経済成長が目指された。フィリピンの国際稲作研究所による「緑の革命」がその一例である。しかし、資金のみの援助や単発の技術提供は必ずしも成果に結びつかず、多くが成功とは言えなかった。それは、開発が経済とイコールではなく、政治や社会、文化と密接にかかわっているということに気づかなかったからである。また、1964年設立のUNCTADにおける議論では、途上国自身の経済発展を目指し、第1次産品の値上げ等が検討された。しかし、これは石油資源の分野では成功したものの、穀物など先進国でも生産される品目では失敗した。

 一方日本は、1965年までは援助を受けていた側である。東海道新幹線や黒部第四ダムなどは世界銀行の融資によって建設された。しかし、1972年にGDPが世界第2位になり、1975年のランブイエ会議で先進国入りをすると、先進国としての責任をとる名目で本格的な経済援助を始める。具体的には、ODA(Official Development Assistance)の倍増計画などである。さらに民間レベルでも、1979年前後のインドネシア難民問題を機にNGOが次々と発足し、ボランティアとして海外に向かう日本人も増えた。しかし、これ以前にもNGOは現れている。シャプラニールやアジア学院、JOCS、OISCAなどである。

 以上のように、国際協力の歴史は浅く、国際社会自体が1960年代にようやく国連レベルで始めているし、日本ではさらに20年程度遅い1980年代後半から本格的に開始されたと考えられる。次回は、それ以降の国際協力の動きを追っていきたい。

 

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